小説:ホワイト バレンティン ショコラータ

バレンタインデー。1年周期でやってくるそれは、女の子にとって数少ない決戦の日だ。チョコレートは数多ある菓子類の中でも、甘さと苦さが共存する特異な食べ物。その独特の味わいは、バレンタインの本質を象徴していると言えるだろう。
甘いチョコがもたらす苦い結末。そんなありがちな末路を予感したとしても、すべては渡さなければ始まらない。吉と出るか凶と出るか、はたまた第3の結末が用意されているのか。これはそんな日の甘く切ないお話。


【登場人物】
▲綾瀬沙希(Saki Ayase)
 本編の主人公にして不遇な少女。高校1年生。
 基本的に誰に対しても敬語で、ちょっと世間からずれた感がある。



「や、やー、たのもう」
動転して奇怪な叫び声をあげてしまったものの、廊下が閑散としていたせいで却って周囲の注目を浴びてしまう。運命のバレンタインデーを前日に控えた金曜の放課後。学外で彼との接点がない私としては、不本意でも事前に渡さざるを得ない状況だ。
出来うる限りの趣向を凝らした手作りチョコは、贈答用の最終形態に変貌を遂げ私の手中に収まっている。あとは彼との面会さえ叶えば、いつでも所有権の移行が可能。しかし、目の前の扉が邪魔をする。この向こう側に彼がいると聞いて来たのに。

一旦出直そうかと思ったが、全身を翻そうとした瞬間、不意に誰かの手が私の右肩を叩いた。もしや彼では!と心をときめかせるが、その華奢な手が明らかに女子生徒のものと分かり意気消沈してしまう。
「何か御用かしら?」
如何に相手が女の子であっても声をかけられた以上は無視するわけにもいかず、気のない動作で半身だけを反転させる。
初めて見る顔だった。どうやれば、こんなに白い肌になるんだろうと首を傾げたくなるほど、真っ白な肌をしている。よく言えば綺麗だけど悪く言えば血色が良くないともいえる。雰囲気的には、端麗と冷淡を併せ持った感じのお姉さん、といったところだろうか。顔立ちだけなら若い先生と勘違いしそうなほど大人びているが、全身を見渡せば生徒だと判別することは難しくない。なぜなら私とお揃いの紺色のブレザーと青いチェックスカートを身に着けているからだ。
「あ、どうも、お邪魔してます」
「まだ入ってないじゃないの」
「あ、そうですね、えーと、今日はまとこにいいお日柄でしてその……」
「今日は仏滅よ」
「はわわ。ではそのいいお天気に恵まれてですね」
「午後から一雨あるって予報で言ってたけど」
「あぅ、と、とにかく瀬川くんに用があってですね」
「最初からそう言えばいいじゃないの」
「そ、そうでした。なんでも大人になると、社交辞令だか時候の挨拶だか知りませんが、いろいろと前置きが必要だとお母さんに脅されたことがあって……」
文脈が支離滅裂になりつつあったので一旦深呼吸をして、気持ちを落ち着かせる。ちなみに瀬川くんというのは、入学当初から私が一方的に想いを寄せている同じ学年の男の子だ。喜ぶべきか悲しむべきか、彼は校内随一のモテる男子であり、事実、彼の周りには常時2~3人の女子が金魚のなんとかのようにへばり付いている。彼の迷惑になってもいけないので、私はあまり粘着質な活動をしないよう心掛けているけど、バレンタインに関しては話が別だ。年に1回のこの行事だけは、なんとしてもチョコと想いをセットで届けたい。
「立ち話もなんだから、中に入りましょ」
そう言って、彼女は右手に持つアンティーク調の鍵で無駄に荘厳な扉を解錠する。ここは瀬川くんが所属する委員の執務室だ。第2の生徒会と言われる校内イベントの実行委員会。彼はその副委員長。グローバル化の波が影響しているかは知らないが、特徴らしき特徴もない平凡な中堅校である私の学校も、近年は自主性を重んじる風潮が強まっているらしく、できうる限り生徒主導で物事を決めていこうという趣旨らしい。
室内は閑散としつつも、整理整頓が行き届いていた。空気も澄んでいて、埃ひとつない感じだ。ただ部屋の広さと重厚感に対して、装飾が少し寂しいような気もする。実質本位の学校で高価な調度品を並べるわけにもいかないだろうけど、もう少し飾りっ気があってもいいように思える。
部屋の一角にある応接セットに誘導された私は、手前側の椅子に腰をかけた。本来であれば下座やら上座やらの堅苦しい仕来りがあるのだろうけど、一介の高校生が学内でそこまで気を使うこともないだろう。木製の椅子は薄目のクッションが敷かれており、軽く湾曲した背もたれに体を沈ませると、力んだ身体が弛緩していくのがわかった。どうやら無意識のうちに緊張していたようだ。
とりあえず本日の主役であるチョコの状態を確認しておこう。包装の乱れはなし。結び目も緩んでいない。淡い水色を基調とした水玉模様の包み紙は単色ベージュのサテンリボンで十文字に結ばれている。結び目は定番の蝶々型。全体のサイズは、厚みこそあるが、平面サイズは10センチ角程度のスクウェアで威圧感はない。
彼だけのために用意した自慢のお手製チョコ。世間では下駄箱に入れる習慣もあるみたいだけど、ある意味不衛生な場所に放置するのは一定の勇気がいる。それになにかの間違いで本人の手に渡らない可能性もないとは言えない。やはりきっちり手渡しして安心したい。今晩お風呂の最中やベッドの中で、受け渡しの瞬間を思い出して幸福感に浸るために。
そんなことを考えていると、先ほどの彼女が湯呑を載せたお盆を持って現れた。歩き方が自然体なのにエレガントだ。高校生然としていない。普段から気を使っているのだろう。物腰のしっかりした女性はそれだけで素敵に見える。私とは根本的に落ち着きのレベルが違う。そういえば、この人何者なんだろう。この部屋の鍵を持っていたということは、瀬川くんと同じ委員なんだろうけど。
「まずはクラスとお名前をお伺いしようかしら?」
「あ、これは失礼しました。1年A組の綾瀬といいます。綾瀬沙希(あやせさき)です。友達からは沙希ちゃんと呼ばれています」
彼女と違って私はいつまで経っても子供っぽさが抜け切らない。普段のクセで余計なことまで口走ってしまったが、微妙に蔑んだ目で見られただけで言葉による突っ込みは入らなかった。
「1Dの村雨陽菜(むらさめはるな)よ」
「なるほど1年生ですか……って同じ学年じゃないですか!」
「そうなるわね」
顔を包み込むようなセミロングヘアに凛とした表情、高めの鼻筋、加えて落ち着いた口調と全身から醸し出される大人の雰囲気から、てっきり高学年だと思っていたけど、まさか同い歳だったとは。よく考えたら今のこの時期、3年生は受験でいないわけで、仮に彼女が年上だとしても1つしか違わない。私もあと3年強で大人なんだから、もう少ししっかりしないとダメだよね。
私は出された湯呑に口をつける。普通の煎茶だったが、濃い目ですっきりとした味わいだ。私の住むS県はお茶の産地だから、地元産かもしれない。
「それで瀬川くんは?」
「臨時招集の会議中よ。まだしばらくかかると思うわ」
「うー、それは残念です。では出直しということで」
「せっかく来たんだから、用件ぐらい言ってから帰りなさいよ」
「それはそうですが、何分プライベートなことでして」
「大方目星はつくわよ。それを渡しに来たんじゃないの?」
右手に持つ包装済のチョコを指さされ、反射的に体の後ろに隠してしまう。
「この時期ですから、やっぱり分かりますかね」
「あなただけじゃないもの。特に相手が瀬川となればね」
そりゃそうか。一定レベルの人気なら歓迎すべきだろうけど、ライバルが多すぎるのも困りものだ。
ちなみに彼の人気が高いのは、多分彼ひとりの手柄じゃない。瀬川くんには双子の弟さんがいて、そちらもお兄さんほどではないにせよ、女子に大人気だったりする。よくも悪くも双子というのは目立つもので、それが結果として瀬川くんの話題性を引き上げた感は否めない。
「そんなわけでして、これは本人に直接渡さないと意味がないので、一時撤退しますね」
チョコを渡しに来たはずが、緊迫の瞬間を先延ばしできることに安堵感を得ている自分がちょっと情けなく感じた。とはいえ、肝心の彼がいないのでは仕方がないので、校内を散策でもして会議が終わるのを待とう。退室のため腰を上げかけたが、彼女から待ったの声がかかる。
「もしかしてあなた知らないの?」
「なにをですか?」
「瀬川人気があまりに高いせいで、審査制を導入することになったのよ」
要点だけだったため、理解が覚束ない私は目をパチクリさせる。
「すみません。意味がよく分かりません」
「だから、チョコを審査するのよ。落選された方はお持ち帰りってことになるわね」
「ますます意味不明ですよ! どうして、まごころの塊を値踏みされなきゃいけないのですか!」
「チョコに限った話じゃないわ。どんなものでも応募者が多いとふるいに掛けられるものよ」
寝耳に水だ。突如発生したイベントの参入障壁に憤慨するものの、冷静に考えてみれば、彼女の言い分も理解できなくはないと思い始めた。懸賞から就活まで、そこに集う人数が一定数を超えると、抽選や選考、審査の類が必ず発生する。しかしバレンタインはプライベートな恋愛イベントなのだから、そのような無粋な選別過程は通常発生しないはずだ。
「あんまりですよ。女の子の純真な気持ちを踏みにじる行為です!」
私は語気をさらに強めて断固抗議するが、眼前の彼女に動じる気配は見られない。
「その純真さと真正面から向き合った挙句、入院する羽目になった去年の瀬川にそのセリフをぶつけなさいな」
入院という単語が飛び出て、私は少し態度を緩めた。詳しく事情を聴いてみたところ、去年瀬川くんは女子たちのチョコ攻めに遭って体調を崩したらしい。連日のチョコ生活で、チョコを見ただけでも吐き気がするほど悪化したとのこと。
「渡す側には分からないことかもしれないけど、よく考えてごらんなさい」
彼女はそう前置きしてから、湯呑のお茶を一口すする。
「私は瀬川と同じ中学だったんだけど、去年の彼、いくつチョコをもらったと思う?」
「うーん、瀬川くんは去年も今年も同じぐらいの人気だとして、10個、いや15個は……」
「40個よ」
「40! つまり私は40分の1ということですか?」
「あなたの相対価値はどうでもいいのよ。それより問題は量。みんな張り切って多めに作るのよね。一人平均100グラムとして、総重量4キロよ。市販の板チョコ換算で80枚。あなたなら食べきるのに何日かかるかしら?」
うぐっ、つい最近まで毎日チョコと格闘していた私としては、彼女の言いたいことはよくわかる。試食と称して溶かした200グラムのチョコの半量程度を一気に食べたときは、半日ぐらい気持ち悪かったような……。
「チョコはお腹にやさしくないのよ。たとえ男子でもね。それが一気に4キロよ。さすがに同じ轍を踏むわけにはいかないから、今年こそ無理はさせられないわ。となれば、どう考えても一部は彼のお腹以外のどこかに行きつくと思わない?」
彼女の指摘は的を得ていた。手作りチョコは市販のチョコみたいに長くは持たない。生クリームなどの日持ちしない原材料を使う上に、工業製品のような密閉包装でもない。長く見積もって1週間もつとしても、食べられる限界はかなり無理して1キロ程度だろうか。もっとも仮にそんなハイペースで食べられたとしても、気分が悪くなって味わうどころではないだろうけど。
「この審査制は瀬川にとっても苦渋の決断なのよ。そこを理解してあげてね」
もちろん瀬川くんの心中は察するけど、不合格になったら家に持って帰って自分で食べるんだよね。多分涙でちゃうだろうな。
「それじゃ、申請用紙に必要事項を記入してもらえるかしら」
そんなものまで用意してあるんだ……。仕方ないとはいえ、夢のバレンタインが役所の手続きみたいでなんかイヤだな。
手渡された紙は、A4のコピー用紙にありきたりな書体で印刷されている。まさに役所に置いてありそうな事務的な書面だった。文字は大き目だが、質問事項が多数並んでいる。

1.料理経験またはお菓子作りの年数(趣味、業務不問)
2.専用厨房の有無
3.使用した材料と推定のグラム数、カロリー
4.推定消費期限
5.今回作られたお菓子のテーマ、コンセプト

他にもいくつか項目はあったが、すべてに目を通す前に天井を見上げてしまう。このまま天井のシミでも数えていたいぐらいだ。
「なにか分からないことある?」
「これ、3や4は理解できますよ。問題は大量のチョコをどうするかですからね。でも5とかは何の意味があるんでしょうか?」
「何言ってるのよ。手作りチョコは一種の創作作品なんだし、テーマ性は重要でしょ」
「それはそうかもしれませんが、お菓子コンクールじゃないんですよ。バレンタインってそんなに小難しいものではないはずです」
「あなた、競争率の高さというものを甘くみてるわ」
厳しい目をしたあと、両手をバンと机の上で叩く彼女は、真剣な眼差しで私の両眼を見据えながら続ける。
「たとえるならアイドルね。あの手の有名人に物を渡すのは簡単じゃないわ。ま、送るだけなら送れるけど、手に取ってもらえるかは分からない。受け取る側からすれば、見ず知らずの他人から送られたブツにすぎないわけで、当然警戒もする。どう、簡単じゃないでしょ」
「たとえが極端です。瀬川くんは同じ学校の生徒さんですよ」
「そうよ。でも彼を慕う女子が40人いる。そうなったら、それはもう競争なのよ」
「そんな……」
「他の男子にしなさいよ。それなら、世間一般のバレンタインになるわよ」
そんなの意味がない。私に限らず男子なら誰でもいいと思って、チョコを渡す女の子なんていない。好きな人だから、まごころを込めて作ったんだ。食べてもらいたい。美味しいって言ってほしい。それは瀬川くんだから。他の誰かのためじゃない。
「仮に瀬川くんの人気がなかったとしても、私は瀬川くん一筋なんですけどね」
「他の子もそうなのよ。たまたまみんなの気持ちが瀬川に集中してるだけ」
瀬川くんの魅力がみんなを虜にさせるのだから、「たまたま」は言い過ぎだろうけど、彼女の言いたいことは分かる。
「ちなみに村雨さんもその中の一人だったりするんですか?」
「さあね。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。あなたには関係ないことよ」
手の内は明かさない主義らしい。ま、あまり詮索しても意味ないか。ライバルは1人、2人じゃないんだし。

「ちなみにどなたが審査されるんですか?」
「私よ。瀬川直々の任命。公明正大がモットーだから、その点は安心していいわ。ただし賄賂の類はそぶりを見せただけで失格だから」
「そんな卑怯なことしません!」
「それは重畳」
試験問題のごとくすべての空欄を埋めた私は、紙を彼女に差し出しつつ、新たに発生した疑問を口にする。
「用紙はともかく、チョコは直接瀬川くんに渡してもいいんですよね?」
「それは構わないわよ。でもチョコの審査は絶対にするからそのつもりで」
「具体的にどうやって行うんでしょうか?」
「そうね。そう時間がかかるものでもないし、やりながら説明するわ」
そういった彼女はテーブルの脇に置いてあった私のチョコを拾い上げ、ラッピングの外装である蝶々結びを解き始めた。……って、あれ?
「はわわ、なに勝手に開けようとしてるんですか」
「そんなこと言われても、封を解かなきゃ審査できないじゃない」
「それはそうかもしれませんが、汚い手で触ってほしくないというかなんといいますか」
「意外に辛辣な言葉を使うのね。手は普段からこまめに洗ってるわよ」
「すみません汚いは言いすぎでした。清潔感に欠ける手に訂正します」
行き過ぎた言葉遣いにすかさずフォローを入れるも、誠意が足りなかったのか、顔に手を当てて天を仰ぐ彼女。
「アルコール消毒でもしろっていうのかしら。もういいわ。だったら、あなたが開けて頂戴」
それが一番無難な選択だよね。私は慎重に慎重を重ねながら、外側の結びを解き、続けて包装紙を丁寧に広げていく。蝶々の形が気に入らないやらなんやらで、解いては結びを繰り返した昨晩の奮闘は一体なんだったんだろうと少しため息をつきたくなる。花の模様があしらわれた純白の化粧箱をゆっくり引き上げると、全体を薄いフィルムに覆われたチョコが9粒ほど現れた。
うん、何度見ても美しいね。テンパリングも完璧。表面の光沢が否応なしに食欲を喚起する。私の最高傑作、3色ローズチョコレート。
「ふうん、薔薇の形をしたチョコね。なかなか綺麗にできてるじゃない」
「えへん。型に流し込むだけとはいえ、はみ出ないようチョコの量を調節するのが大変でした」
「紅一点なのがいいわね。赤はあなた自身を表しているのかしら?」
「そこまで深く考えてはいませんでしたが、言われてみると、その解釈もロマンチックでいいですね」

彼女の指摘は中央の赤い薔薇、ストロベリー味のことだ。要するにこんな配置だったりする。

白黒白
黒赤黒
白黒白

真ん中の赤が映えるように、あえて1個だけにしたのがポイントだ。バランス的には苺味をもう1つ添えたかったんだけど、デザイン性も考慮すると、この布陣以外は思いつかなかった。
あとで他の参加者のチョコと比較するためだろうか。彼女は奥の机に置いてあったカメラを持ち上げ、おもむろに撮影を始める。大口径のレンズが付いた高価そうなカメラだ。
「一眼レフってやつですか?」
「厳密には違うわ。これはレフのついてないカメラよ。軽くて使いやすいの」
「レフがないってことは、一眼と呼べばいいんでしょうか?」
「それでもいいけど、ミラーレス一眼と呼ばれることが多いわね」
なんでも彼女の私物らしい。カメラ好きなのか、1つ質問すると、間髪を入れずに2つ3つ答えが返ってきた。時折、饒舌な口調でまくしたてるので、私は注意を喚起する。
「説明はゆっくりでいいので、チョコに唾を飛ばさないようにしてくださいね」
「あなたいちいち失礼ね。なんならマスクでもしましょうか!」
親切心のつもりがなぜか癇に障ったらしい。女心って難しいな。
「とりあえず1次審査はOKよ。次は2次審査ね」
何次まであるんだろうと思い尋ねてみると、これで最後とのこと。たしかにすぐ終わる審査だね。そうでなくては困るけど。
「それじゃ失礼するわね。どれにしようかな」
薄いポリ手袋を利き手にはめた彼女は、迷ったそぶりのあと、1個しかない中央の赤いバラを摘み上げた。てっきり重さでも測るのかと思ったら、なぜか口元まで引き寄せていく。あれ、ま、まさか……
「ちょ、ちょっと待ったです!!」
「なに、申請取り消しかしら?」
「そうじゃなくて、今口に入れようとしませんでした?」
「だって、食べないと味が分からないじゃない」
「あなたが食べてどうするんですか! 私は瀬川くんに味わってもらいたくて、何度もやり直したんですよ!!」
白豚のエサにするためじゃありません! も付け加えようかと思ったが、すんでのところで自重する。しかし、今度は彼女の方が止まらない。
「逆ギレしないでよ! 予備のチョコを持ってこないあなたが悪いんでしょ!」
「そこまで言うなら、募集要項を事前に公布してください!」
激しい言い争いにも関わらず、チョコに余計なものが飛散しないよう、距離をおいて罵り合う私たち。これがプロの口喧嘩というものだ。……じゃなくって、なぜウキウキバレンタインイベントで今日初めてあった女の子と醜い争いをしなければならないんだろう。
彼女も争いの不毛さに気が付いたのか、声のトーンを落として和解案を提案してくる。
「仕方ないわね。じゃあ、今日は渡すだけにして、彼が食べるのは審査後。それまでに審査用のチョコを提出。それでいいでしょ?」
「分かりました。では今晩中に作って、明日の朝一にあなたをたたき起こして口の中に無理やり突っ込むことにします」
なんかバレンタインのウキウキ感が完全に吹っ飛んで、超絶バトルモードに突入な気が……。チョコは甘くても、瀬川くん争奪戦は甘くないらしい。

女子2人の軽い喧噪が一段落した数分後、入り口の扉が静かに開く。そこに現れたのは、疲労困憊気味の瀬川くんだった。私たちとお揃いの紺のブレザー、そして灰色のスラックス。一見地味な配色だけど、彼が着こなすとファッション雑誌の1ページを飾ってもおかしくない格好良さだ。や、別に見た目だけで彼を好きになったわけじゃないよ。そうじゃないけど、外見だって人の価値を測る重要要素に違いない。その証拠に女子だってお化粧に時間をかけるんだし。
それにしても取り巻きがいない彼を見るのは何か月ぶりだろう。これで村雨さんがいなかったら最高なんだけどな。
「瀬川くん。お久しぶりですよ。会議お疲れ様でした」
「ああ、キミはたしか……、綾瀬さんだっけ?」
「わわ、覚えていてくれたんですね。感謝感激ひなあられです」
思わず子供っぽくはしゃいでしまうが、そんな私を尻目に瀬川くんは冴えない表情のまま尋ねてくる。
「もしかしてボクに用?」
「あ、そうです。今日は瀬川くんに差し上げたいものがありまして」
私はちゃっかり再包装を終えていた薔薇の創作菓子を彼に向かって差し出す。普段はこんな風に面と向かえば身体がガチガチに硬直するんだけど、村雨さんとひと悶着があったせいで、良くも悪くも感覚がマヒしていた。
感動のバレンタイン手渡しイベント。便乗して告白までしたいところだけど、さすがにそんな勇気はなく、覚悟もできていない。それに人目だってある。いつまでも先延ばしにしてはいけないと思いつつも、まだ高校生活は2年以上あるのだから、今日のところは、チョコを渡すことに集中しよう。
場の雰囲気から、すんなり受け渡しが完了すると思いきや、彼の手がなぜか伸びない。まさか瀬川くんでも緊張するんだろうか、などとあらぬ勘違いをしかけるが、どうやらそんな感じではなさそうだった。
「ごめん。ちょっと待ってくれるかな」
そういった彼は、少しうつむき加減で声の調子を落としつつ言う。
「彼女から事情は聞いてると思うけど、それは無責任には受け取れない。ボクの体は予想以上によくないんだ」
なにやら、暗雲が漂い始める。
「えっと、体調の件は今日知ったばかりなんですけど、全部食べてもらおうなんて図々しいことは考えてなくてですね」
「量の問題じゃないんだ。さっき試した。食べられないんだよ」
食べられない……って、なに……それ。そんなことって……あるの? もしかしてアレルギーとか? それじゃこのチョコはどうなるの?
そもそも、審査はどうなるんだろう。私は村雨さんに目配せする。
「私もこういう事態は想定してなかったわ。ねえ瀬川。食べられないっていう状況をもうちょっとちゃんと説明してくれない?」
「実演したほうが早いか。本当はやりたくないんだけどね」
そういった彼は、ポケットからフィルムに包まれた黒い塊を取り出す。見た感じと話の流れから、それが小粒のチョコレートであることが予想できた。
「これは、会議のあと書記の子から義理でもらったものだ」
瀬川くん相手に義理チョコを渡す子がいるんだ。ライバルが増えるのも嫌だけど、そういうのもなんかヤだな。いや、今はそんなことどうでもいいか。外装をはがした瀬川くんは、問題のそれを口の前に引き寄せる。
しかし、そこから先が進まない。10秒……、そして20秒と時間が経過するも瀬川くんの手は小刻みに震えるだけで、唇との距離が詰まることはなかった。それどころか震えはどんどん大きくなる。これ以上待っても無駄と判断したのか、村雨さんが彼の手を下ろさせる。
「そもそも、これまではこういうことってなかったの?」
「去年のあれ以来、チョコは意図的に避けてたからね」
「チョコと一口に言ってもいろいろあるでしょ。チョコケーキとか、チョコチップクッキーとか」
そうだ。チョコレート製品というのは意外とたくさんある。如何にもチョコレートというブロック状のものから、パウダーやペースト、そしてカレーの隠し味みたいに溶け込んでいるものまで。そのうちの全部がダメとは限らない。トマトはダメでもケチャップはOKというパターンがあるのと同じだ。
「塊は論外、コーティングものも回避してたな。生地に練り込まれているようなものについては、ケースバイケース。要はチョコレート感っていうのか、ねっとりとした甘さがあるものがダメなんだ」
それってチョコレートの美味しい部分が全部ダメってことだよね。特別に誰かが悪いわけじゃないかもしれないけど、結果として私たち女の子が彼の正常な嗜好を傷つけたことになる。
チョコを持つ右手がワナワナと震える感じがした。これが彼を苦しめる。渡しちゃいけない。でも渡したい。私はどうすればいいんだろう。
まだ結論を出すのは早い。今は情報収集だ。私はとりあえず思いついたことを口にする。
「甘いのがダメなのは分かりましたが、苦いだけのチョコは大丈夫ということでしょうか?」
「そういうタイプのもあるんだっけっか。いや、それに関しては試してないからなんとも言えないな」
切り出してはみたものの、高カカオタイプのチョコも甘さを除けばチョコレート感丸出しの食べ物だ。ここまでの情報を総合すると、恐らく難しいだろう。そもそも、そう簡単に試せる状況ではなさそうだし。
「ココアもダメなの?」
「如何にもホットチョコレートです、みたいなのは飲みたくないな。ミルク感たっぷりで薄味ならいけるかも」
飲み物系にスポットを当てる村雨さんだけど、どうも芳しい答えが返ってこない。

「チョコを前にすると思い出すんだよね。去年のあれを」
「もう1年も経つのに……」
どうやら彼の状態は私はおろか村雨さんにとっても想像の範疇を越えていたらしい。
「どうしたものかしらね」
「どうもこうもないさ。その棚のチョコはすべて返却する」

彼の指さす先には、大きさの不揃いな小箱がずらりと並んでいる。どうやら他の女の子たちが作ったチョコのようだ。
「それってどうなの? きっと泣く子も出てくるわよ」
「じゃあどうすればいいんだ? ボクは食べられないんだぞ? 腐るまで放置するのか?」
「最悪は周囲の人に配るぐらいかしらね」
「だったら本人に配ればいいだろ。要は返却だ」
苦悶の表情を浮かべる瀬川くん。これではチョコを渡すどころではない。
「ねえあなた。なにかいい案ない?」
いや、私に振られても正直どうすればいいのか……。
瀬川くんの体調を考えると、これは渡すべきじゃない。でもそこを割り切ることができない。合理的な判断より感情が優先してしまう。
「えっとですね。問題の解決策は追々考えるとして、今日のところはチョコを受け取ってもらって、まずは見た目を楽しんでもらえればと」
本当は食べてもらいたい。目を閉じて舌の上でやさしく転がして、じわじわととろける甘さを堪能してほしい。もちろん試食はしているので、美味しさは保証できる。とはいえ、今は渡すことが最優先だ。これが手元から離れないと、私は今晩にも地獄の苦しみを味わうことに違いないのだから。
「ま、それが妥当な案かしらね。私もなにかいい方法がないか周囲の人にあたってみるわ」
村雨さんも同調してくれた。あとは瀬川くんだけだ。
「……、………………っ。一つ確認したい」
なんでも躊躇なく発言するタイプの瀬川くんが、珍しく言葉を選んでいるようだった。
「結局さ、キミはどうしたいんだ?」
「えっと……、私としては食べる食べないは次の段階で、まずは受取をお願いしたいと」
「そうじゃない! ボクを喜ばせたいのか? それとも苦しめたいのか?」
突然の大きな声に気圧される。もちろん喜んでもらいたいに決まってる。でも、返事の言葉がうまく出てこない。
「キミにも食べられない物の1つや2つあるだろう? 仮にクラスの男からそれをプレゼントされたら、キミは笑顔で受け取って食べることができるのか?」
相手の立場になって考えろとはよく言われることだ。でも人間はこれが意外とできない。困っている境遇の人と同じ状況が自分に襲い掛かった場合に、どう対処するかという観点で物を考えることは意外と難しいんだ。
「瀬川くんの今の苦しみ痛いほど分かりますよ。でも私も引けない状況なんです。なんて言っていいのか……、どうあれこれが瀬川くんの手に渡らないと、私は多分今晩というか向こう何日かは泣き腫らしたりいろいろひどい状態になることは目に見えててですね。いや何言ってるんでしょうね。別に自分のことしか考えていないとかそういうわけでなくて、とにかく受け取るだけでも受け取ってもらえたらと無理を承知でお願いを……」
「だったらキミも無理を受け入れろよ!!」
部屋の外まで届きそうな大声量が、私の耳を貫く。彼の震えが伝わったのか、私の手も別の意味でワナワナと震え出す。そんな中でなんとか言い返す言葉を懸命に探す私。でも彼の方が早い。
「決して食べられないものを形だけでも受け取れというのか? 消費できないチョコに囲まれたボクはどうすればいいんだ?」
壁にドンと握りこぶしをたたきつける彼。こんなに険しい表情は見たことがない。
想い人の予想外の威勢に押された私は、耐え切れずに反射的に謝罪の言葉を繰り出していた。
「ご、ごめんなさい。……そ、そうですね。やっぱり自分勝手でした。瀬川くんの言い分が正しいですよハイでは今回のこれは無かったことにして恵まれない子供たちに配ることにしますではそういうことで」
自分の意思とは裏腹に、場を収めるための言葉を口早にまくしたててしまう。瀬川くんのこんな顔ずっと見ていたくない。……、……でも、……でもさ。本当に……、いいの? これじゃ終わっちゃうよ? バレンタインが終わっちゃう。最悪の形で終わっちゃう。そんな想いとは裏腹に私の足が勝手に動き出す。瀬川くんの苦渋の顔がどんどん遠くなり、その次の瞬間視界からフェードアウトする。気が付けば私は駆け足でその場から離れていた。
下駄箱でちょうど帰りがけだった親友の律子と顔を合わせたが、視線をそらすどころか掛けられた声すら無視して、足早に学校を後にした。


そのあとはどういう足取りで家路についたのかさえ覚えていない。ただ涙腺が崩落したかのようにとめどなくあふれる涙がなにをどうやっても止まらなかったことだけが記憶に残っている。
自室のベッド。すでに涙は枯れ果てたが、それでも嗚咽だけは止まらなかった。チョコはまだ学習机の上に置いてある。自分で食べる気にもならない。きっといつか捨てることになるんだろう。

今回は材料の選定から気を配ったんだった。ネットでも調べたし、お店も5軒以上は回ったはずだ。何度も作り直して、レシピもいろんなものを試して、親友のりっちゃんにも評価を仰いだっけな。ラッピングは輸入雑貨の店で調達したバレンタイン用の化粧箱と包装セット。すべてが楽しかった。お菓子メーカーの陰謀だとかいろいろ言われるけど、それでもバレンタインは女の子にとって一年を代表する一大イベントなわけで……。

もういいや、どうでもいい。もう消えたい。消えてなくなりたい。
チョコがどうなろうと、どうせ私は40分の1で、瀬川くんが私を選ぶ可能性なんて、ゼロに等しい。
いずれ失恋するとわかってる恋に、夢中になっても仕方ない。彼のことはもう忘れよう。

……
…………
などと割り切れるぐらいなら、恋なんてするか!! ふざけるなっ!!
どうして……、どうしてチョコの1つが渡せないの。もう食べてくれなくてもいいから、食べたふりでいいから、とにかく受け取ってよ。私のあずかり知らないところで、こっそり捨てればいいじゃない。誰かにあげればいいじゃない。それでもウソでも美味しかったよって、言ってくれればいいじゃない。どうしてそれができないの。私、そんなに無理難題な願望を抱いてるかな?

頭の中がグルグルする。同じ思考を何回転させたんだろう。自分勝手で支離滅裂な論理展開を延々と続け、気が付けば真夜中になっていた。明日からは週末だし、月曜日の朝までずっと布団の中に居続けようと思っていたけど、生理現象だけはそれを許さないらしい。空腹はともかく、いい年して漏らすのは大問題だ。
ノソノソと起き上がると、机に置かれたチョコの箱が目に入る。問題の元凶。今すぐこの場で踏みつぶしてグチャグチャにしてやりたい。でも、なにかの間違いで渡せる機会が再来するかもしれず、それができない。
今日は朝からチョコのことばかり考えている。いい加減うんざりだ。なんでもいいから別のことに想いを巡らせたい。なるべくチョコを視界に入れないようにして、部屋の扉を開けた。
「あら沙希、まだ起きてたの?」
廊下をトボトボと歩いている最中に不意に声がかかった。お母さんだった。お正月以来かな。親と娘が一か月単位で顔を会わせない家庭なんて、多分うちぐらいじゃないだろうか。
私の家は両親が共働きな上、二人とも一千万円プレイヤーであるため、世間の平均と比べればかなり裕福だ。もっとも累進課税という理不尽な制度のせいで、稼ぎの4割程度は納税という名の没収を受けるらしいけど。
ちなみに稼ぎが多いからといって、そこまで生活がリッチになるわけではない。手取りが3倍になったところで、100円のパンが300円のパンになり、100万円の車が300万円の車になるだけのこと。もちろん、そこに意味がないわけではないけど、所詮パンはパンであり、車は車だ。一流シェフを雇用できるわけでもなければ、自家用ヘリを持てるわけでもない。生涯収入が10億のお金持ちであっても、半分が税金で持っていかれることを考慮すると、そこそこ優秀な執事を24時間常駐させるのは金銭的に不可能とのことだった。大きなお屋敷で使用人をたくさん使う生活がしたいなら、もう1桁上の稼ぎが必要だそうだ。
なんにしても、我が家が富裕層であることに違いはない。でもそんな両親を持つ私は恵まれているのかというと、必ずしもそうとは言えない。お金というものはただで手に入るわけじゃない。金額に見合った労働力を差し出さなければいけないのだ。二人とも相当特殊な立場にいるらしく、1年を通じてほとんど家に帰ってこない。父は海外赴任中で、会うのは年に1回程度。母は中堅法律事務所の弁護士で、慢性的に人手不足らしく多忙を極めている。ここ1年だけ見ても月に1回帰ってくるかどうかだ。事務所が遠い場所にあるのが問題なんだけど、組織に属する人間のつらい事情というやつらしい。

まあ寮生活してる人だって、親と会えないんだから、同じようなものと割り切れなくもないけど、家族の団らんがないというのは、その状況を経験した人にしか分からない苦しみというものがある。だって家に帰っても、おかえりもただいまもないのだ。ご飯は一人で作って一人で食べるだけ。無駄に広い家は奇妙な静けさに包まれていて、テレビでもつければ多少は賑やかになるけど、それでも時折耐え難い空虚感に襲われる。
そんな状況だからこそ、たとえ月に1回であっても母に会える瞬間はとても嬉しい。でも、今回だけはタイミングが悪かったかもしれない。正直、今は誰とも会いたくない気分だった。
「すみません。いろいろあって、ご飯もまだでした」
「というかあなた制服のままじゃない。まさか夜遊びしてるんじゃないわよね?」
そういえば、着替えもまだだっけ。あー、なんかやだな。どうでもいい心境なのに、日常生活って見境なくやってくるんだから。
「ちょっと疲れてて、帰ってすぐ寝ただけです」
「それならいいんだけど。いや良くないわね。一体何があったのよ」
私はお母さんのことが好きだけど、それでも今この瞬間は鬱陶しいと思う。そんな自分が少し嫌になる。
「ご飯はもう済ませましたか?」
「ううん。これからだけど」
やっぱりそうか。母の生活習慣は概ね把握している。仕事が一番。家庭が二番。自分のことは大きな壁を隔てて三番目ぐらい。もう少し自身の身体を労わってほしい。
「良ければなにか作りますよ」

鮮やかな黄色と赤のハーモニー。なんて威張れるようなものではないけど、出来立てのオムライス2人前が湯気を立てて、私たちの食欲を駆り立てていた。こういうときは、なにか他のことに打ち込むに限る。
ちなみに母は仕事人間なせいか炊事を含めた家事全般が一切できない。私が料理を覚えるまでは、我が家の食事はレストラン、コンビニ、インスタントの3択だったほどだ。そんなわけで私の調理技術は、この家では貴重な能力だったりする。カチャカチャとスプーンのすれ合う音が響く中、家族の会話が始まる。
「そういえば、今日はバレンタインね。例の彼とはその後どうなのよ?」
母には以前瀬川くんのことを話したことがある。となれば、この手の質問が飛んでくるであろうことは十分予想の範囲内だ。
「くだらないですね。お菓子メーカーの戦略に付き合ってどうするんですか。そんなママゴトは中学生までで十分です」
「今日はヤケに絡むじゃないの。なんとなく、なにがあったか想像がついてきたわ」
私はスプーンの動きを止めてから、静かにつぶやく。
「どうしてなんですかね」
「ん?」
「たかがチョコ1個がどうして渡せないんですかね。小さい子供じゃないんだから。そんなこともできない無能な人間をどこの会社が雇うんですかね」
「就職と恋愛のスキルは無関係だと思うけど」
「どうしてチョコの1個が受け取れないんですかね。黙って受け取って、駅のごみ箱にでもこっそり捨てればいいじゃないですか」
「1つ言わせてもらうわ」
母の口調が変化する。
「冷静さを欠いたら、どんな簡単なことも成し遂げられないわよ」
真面目モードだ。いやいつでも真面目な人だけど、こういうときのお母さんは頼りになることを経験上よく知っている。
「教えてください。私はどうすればいいんでしょうか?」
私は今日の顛末を残らず伝える。説明には時間を要したが、母は仕事の疲れも見せずに付き合ってくれた。
「1つは制約の緩和ね」
「制約?」
「バレンタインといえばチョコ、そして2月14日。日付については今日が当日だから問題ないとして、渡すものは限定しなくてもいいんじゃない?」
「チョコ……、以外ということですか?」
「別におかしくないわ。世の中にはチョコがダメな男性なんていくらでもいるんだから」
「うーん、私としては、やはりチョコにこだわりがあってですね」
そんな私を見て、母は少しため息をつく。
「あなたは正直すぎるのが玉に瑕よね」
「正直のどこがいけないんですか」
「プレゼントなんだから、中身がなにかなんて黙ってればいいのよ。相手も受け取ったあとに、わざわざ返しに来たりしないでしょ?」
「いえ、今回は私が事情を知ってしまってますし、それに彼もチョコの返却を明言してましたので」
「だから、そこが正直すぎるのよ」

母の提案はこうだった。チョコとクッキーを別々にパッケージして、最後に1つにまとめて包装する。渡すときはクッキーだと言う。中に手紙でごめんなさいと書いて、チョコはしばらく眺めた後、誰かにあげてくださいと書く。
正直、渾身のローズチョコが瀬川くん以外の口に入るのは悔しくて仕方がないんだけど、でもこのやり方だと希望が持てる。もしかしたら食べてくれるかもしれない。そんな淡い期待を抱くことぐらいはできそうだ。少なくともこのまま終わるよりはずっといい。私は事実を確認する術を持たないのだから。いや、彼が事の顛末を報告しなければだけど。
「問題は明日、学校が休みだということです」
「そんなのは大した問題じゃないわ。同じ街に住んでるんだから、会おうと思えば会えるわよ」
たしかにその通りだ。会えないなんて半ば言い訳にすぎない。道は誰かに作ってもらうんじゃない。自分で切り開くんだ。

翌朝、私はお母さんの車で彼の家の近くまで送ってもらった。
「どうせなら家の前まで送るのに」
「いえ、少しだけ歩かせてください。気持ちを高ぶらせたいので」
「そ。まあ、頑張りなさいよ」
「はい、お母さんもお仕事頑張ってください」
お互い手を振り合いながら、ここで別れる。母の車が見えなくなるまでは、その場に留まって見届けた。いつもながら不思議に思うが、母は毎日何時間ぐらい寝てるんだろう。どう長く見積もっても4時間ぐらいな気がする。体が心配だ。運転も大丈夫かな。いや、今は自分のことに集中しよう。
とは言ったものの、突然個人の家に押しかけていいものだろうか。私たちはそういう関係まで発展していないし、実際彼の家に来るのは初めてだったりする。よく考えたら、私すごいことをしでかそうとしてるんじゃないだろうか。ライバルの女の子たちでさえ、直接彼の家に押しかけたりはしてないはずだ。
すべては母の提案なんだけど、今日のここまでの展開はほとんど勢いで行ったものだ。事前に綿密な計画を練ると怖気づくから余計なことは考えるなと言われていた。たしかにその通りだと思った。特に私の性格では、考え込むと足がすくむのが目に見えていたから。
彼の住所も学校のデータベースで調べたにすぎず、当然アポなど取っていない。しかし、来てしまったものは仕方ない。最悪ポストに投函という手もあるけど、ここまで来てそれはなるべく避けたい。事の顛末をうやむやにしたいという思いがなくもないけど、それでも本人にプレゼントが渡るところまでは確実に遂行しておきたいのだ。
覚悟を決め、インターホンのボタンを押す。そういえば、家庭環境がかなり悪いって言ってたような。ご両親が世間の平均と比べて、相当険悪な関係だと聞いている。大丈夫かな。ちゃんと取り次いでもらえるかな。
「はい、どちら様ですか?」
スピーカーが発した声は、予想に反して若い声だった。この性別が判断しにくい高めの声は、瀬川くんじゃなく、弟さんのものだ。二人は一卵性の双子らしく、姿形はそっくり。でも髪型や雰囲気が違うから、見分けるのは簡単。
「突然のご訪問すみません。私、天の川高校1年の綾瀬というものです」
「もしかして、兄に用かな?」
「あ、はい、できればお取次ぎをお願いできないでしょうか」
「とりあえず、そこで待っててくれる?」
「はい、ごめんなさい」
やがて、玄関の扉が開くと、ショートヘアで丸顔の男子が現れる。弟さんだ。ということは瀬川くんは私を拒絶したことになるんだろうか。ううん、たとえそうであっても、やれるだけのことはやってやる。
「や、兄貴に用なんだよね」
弟さんはお兄さんとは違うタイプのモテる男の子だ。すごく大雑把な表現をすれば、お兄さんはかっこいい系、弟さんは可愛い系。見た目だけじゃなく、振る舞いも。
「突然ごめんなさい、どうしても瀬川くんに……、えとお兄さんに渡したいものがあったんです」
「ごめんね。その兄貴なんだけどさ。昨日の晩から体調崩してるんだよ」
「そうなんですか。それじゃお見舞い……、ってわけにもいきませんよね。彼女でもないのに」
「恥ずかしながら、親が自慢できる人格してないんでね。家に招き入れるのはちょっと」
「うー、どうしようかな。なんとしても渡したいものがあって」
「それって、もしかしてバレンタインとか?」
「あ、はい、本当は昨日渡すつもりだったんですが、いろいろとありましてその……」
「実は兄貴の調子が悪いのって、チョコが原因なんだよ」
まさか無理して誰かのチョコを食べたんだろうか。昨日の瀬川くんの様子だと、チョコを食べられない罪悪感のようなものは感じていたと思う。彼は女の子に対して厳しい態度を取ることもあるけど、それ以上に女の子を立てる行動に出ることも多い。
いつだったか、見境なくお弁当を作ってくる子に対して、毅然とした態度で絶対に食べないと言い張ったことがあった。瀬川くんは男子では珍しく、自分でお弁当を作る派なんだけど、女子があまりに一方的で無配慮なお弁当攻撃をするものだから、公平を期して当番制を導入したほどだ。しかも量は半人前までと厳格に決めての話だ。基本はあくまでも自分のお弁当であり、プラスアルファで女子のお弁当を食べるのだ。ある意味それも彼の体型がおかしくならないか心配だったりするんだけど、女子たちの方も気を使って上限200キロカロリーというルールを作り、今はそれでうまく回っているようだった。要は群がる女子の統制をきっちり取って、全体として混乱がおきないようにしたんだけど、彼でなければそこまで思い切った対策は取れなかったと思う。
なんにしてもチョコでダウンしたとなると、母の忠告は値千金だったと言える。もちろんチョコにはすごくこだわりがあるんだけど、固執し過ぎてなにも渡せないという事態だけは避けなければならない。0か100かじゃなくて、30でも50でも想いを届けたいんだ。
「実はそんなこともあろうかと、チョコ以外に焼き菓子を何点か作ってきましてですね」
「ああ、そうなんだ。それなら多分大丈夫だろうなあ。クッキーなんかは普段から食べてるし」
なんかいけそうな気がしてきた。というか昨日と展開が全然違うような気がする。いや当たり前か。話してる人物が違うんだから。とにかく話を前に進めないとだね。
「良かった。ではせめてそちらをお渡ししたく」
「それじゃ、ボクがあずかるよ。本当は直接がいいんだろうけど、さすがに寝込んでる人間を連れてくるわけにもいかないし」
「もちろん安静にしててくださいですよ。えっとでは、青い方がチョコで、赤い方がクッキーになります」
結局パッケージを1個に集約する案は採用しなかった。これは私が及び腰だったせいなんだけど、セットでアウトになることが怖かったからだ。
「クッキーはいいけど、チョコは食べられないよ多分」
「それに関してはですね。こんなこと言うとまた瀬川くんに怒鳴られそうなんですけど、なんとか気持ちだけでも受け取ってもらえたらと思いまして。その後の経路は大人の事情でどうなっても文句はいいませんので、できれば私に分からない形でよしなにしていただければと」
「なるほどね。なんとなく言いたいこと分かったよ。兄貴はその辺ちょっと堅物だからなあ。嘘も方便的な対応がいまいちできないんだよね」
そう! これ、これだよ! 私が昨日瀬川くんに求めていた対応は。そんなに思いつめないで、普通に受け取ってほしかったんだ。でもこれは弟さんだから、こういう対応なんだよね。もしここにいるのが瀬川くんだったら、やっぱり昨日の繰り返しになったんだと思う。個人の思想ってそう簡単に変わるものじゃないし。
そういう意味では弟さんが出てきてくれて本当に良かった。いやそれは床にふせている瀬川くんに対して失礼だけど、でも弟さんでなかったら、この結果は引き出せなかった。……いや……、そうだけど……、それもたしかにあるんだけど、でも違う。
私だ。私が今日、決心をして覚悟を決めてここに来なかったら、この結末は得られなかったんだ。ベッドでベソをかいていたら、この快挙はなしえなかった。
もちろんお母さんの力も大きい。母が昨日帰ってこなかったら、私はいまだにベッドでふさぎ込んでいたに違いないのだから。
なんだろう。そうやって考えてきたら、奇跡の連続な気がしてきた。少し涙がでてくる。
「あれ? ごめん。ボクなんか気に障ること言っちゃったっけ?」
あっ、やば、弟さんに勘違いさせちゃった。私はあわてて取り繕う。涙ながらだけど。
そんな折、チラチラと白いものが舞い込んできた。
「あ、降ってきたね。今晩は積もるらしいよ」
「さしずめホワイトバレンタインといったところでしょうか」
「そうなるのかな」
私はしばらく雪が舞うのを眺めたあと、彼に何度もお礼を言って別れた。もちろん瀬川くんにお大事にを伝えることも忘れていない。

紆余曲折はあったけど、なんとかハッピーエンドと呼べるギリギリの形で今年のバレンタインイベントは終了した。後日瀬川くんからお礼のメールが届いたのは言うまでもなく、いやそっちは特筆すべきことだけど、私がそれに対してベッドの上で狂喜乱舞したのはそれこそ言うまでもなく。

fin

 

あとがき

最近は絵ばかりで小説をまったく書いていなかったので、勘を取り戻すために短編の執筆に取り組んでみましたが、チャレンジしてみると短いが故の難しさがあることが分かりました。正確には数えてませんが、おそらく本文は普通の文庫本30ページかそれ以上のボリュームがあります。本当はもっと短くするつもりでしたが、推敲を重ねるうちにどんどん肥大化していき、このサイズになりました。

私のスタイルは緻密な設定を作り込んで、設定で読ませるタイプの作風です。キャラも長編では10人以上出しますが、短編だと出せないんですよね。1人出すたびに説明文がそれなりに要るので、短くするという制約に反することになってしまいます。

とはいえ短く書く訓練は今後も続けていきたいと思っています。

タイトルですが、辞書的な意味はないです。私はタイトルを音感だけで決めるという異常主義であり、長編の場合はタイトルを先に決めてから、それに合う話を考えるという意味不明な手法を取っています。

私は基本的に1人称小説しか書きません。1人称小説とは主人公が語り手となり、地の文を綴る形式です。最大の特徴は主人公の知らないことは書けないということです。これは視点的な問題だけでなく知識にも当てはまります。ファッションに疎い主人公が、バリバリの専門用語を連発して他人の服装を描写してはいけません。たとえ作者に知識があっても主人公が知らないことは書いてはいけないのです。

性格面もまたしかりです。他人の容姿に気を払わない性格の主人公であれば、やはり他人の外見を克明に描写することはできません。1人称小説にはこのような特殊な性質があるため、主人公の性格設定や知識レベルが非常に重要になります。私の場合、主人公は比較的知的で世の中のことを広く知っているという設定で作ります。

とはいえ高校生が社会人の行動様式を詳しく知っていたらおかしいので、やはりその辺は書けないということになりますね。このあたりはいろいろテクニックがあるので、それはまた別の機会にでも。