登場人物
▲綾瀬 沙希(Saki Ayase)
本編の主人公にして不遇な少女。S県立天の川高校1年生。A組所属。
基本的に誰に対しても敬語で、ちょっと世間からずれた感がある。
▲立花 律子(Ritsuko Tachibana)
1年A組。沙希の親友。モラルに対する異常なまでの反抗心を持つ。
▲村雨 陽菜(Haruna Murasame)
1年D組。瀬川と同じ委員の女子生徒。才色兼備顔面蒼白。
▼水無瀬 渚(Nagisa Minase)
1年C組。家が貧しくバイトで生計を立てている。カリスマ的容姿の持ち主。
▼春日(Kasuga)
1年A組。サッカー部の次期エース。典型的なスポーツマンタイプ。勉強は苦手。
▼瀬川 兄(Segawa Elder)
1年D組。沙希の想い人。女子から絶大な人気を誇る男子。自分に厳しく他人にも厳しい。
▼瀬川 弟(Segawa Younger)
1年C組。一卵性双生児瀬川兄弟の片割れ。
挿絵
プロローグ
乾いた靴音に交じって、女子たちの甲高い笑い声が聞こえてくる。その狭間で囁かれるテノールの甘い声音。雑踏の中であっても、聞き違えることはありえない。私の想い人、瀬川くんの優しく透き通った声だ。
「瀬川くんって男子なのに自分でお弁当作るってすごいよね」
「そうね。女子でもほとんどの子は親任せなのに」
「僕の最近のトレンドは中華なんだ。豆板醤の辛味を生かした料理がいけるんだよ」
「わぁ、食べたーい」
会話の内容が聞き取れるということは、もう彼はすぐそばまで来ているということだ。心臓の高鳴りが私の胸を締め付ける。問題は女子によるあの囲いだ。彼はゲームのボスキャラのごとく、取り巻きとセットで登場することが多い。入学して1年近くになるが、単独の彼を見かけた記憶はせいぜい3回分ぐらいしかない。脅威の集団エンカウント率は、彼への接触を躊躇する最大の理由になっている。重要な用件でなければ踵を返して帰路に向かうところだけど、今日この瞬間ばかりは退くわけにはいかない。バレンタインデーは2月14日と決まっているからだ。
彼の足音が推定2メートル圏内に入ったとき、背後に立つ律子から背中をポンと押された。
「頑張れ」
私はコクンとだけ頷いて、そのまま身体を翻した。一歩前に飛び出すと、眼前には長身で立ち塞がる彼の姿があった。
「おっと、急に飛び出すと危ないじゃないか」
出るのが遅すぎたようで、危うく彼とぶつかる寸前だった。
「誰かと思えば沙希ちゃんじゃない」
クラスの女子だ。分かってたこととはいえ、いつも顔を合わせている子たちの前で、想いを届けなければならない。小心者の私にはヘビーな展開だけど、今日は絶対に逃げないと決めている。たとえ、この場に先生が居ようが両親が居ようが。
「あ、あの……、瀬川くん!」
思い切って切り出した言葉を皮切りに、唯一彼と腕組みをしていた少女が他の子たちの背中を押す。
「みんな、退散するわよ」
「ふぇ、委員の仕事はどうするの?」
「別に今日じゃなくてもいいわよ」
撤退指令を出したのは、瀬川くんと同じ委員でクラスも同じという村雨さんだ。過去に2度3度言葉を交わしただけだけど、優雅なのに毅然とした態度は本当に憧れる。その白すぎる顔が目の前まで迫ると、濃いめの唇が微かに動いた。
「脅すわけじゃないけど、瀬川は一筋縄じゃいかないわよ。気合入れなさい。もっと背筋伸ばして」
言われるがままに私は猫背気味だった背をピンと立てる。
「あの、楽しんでおられるところをお邪魔しちゃって本当にすみません」
「いいわ。他の子はもう渡し終えてるし、勇気出してる子を邪魔するほど私たちは野暮じゃないから」
そう言って、他の少女たちに再度撤収の指示を出す。別の女の子が少しため息をついたあと、こぼした。
「んーー、まあ仕方ないか。私だって逆の立場だったら、邪魔されちゃイヤだし」
それに呼応してか、瀬川くんも場を作ってくれる。
「みんな気を付けて帰りなよ」
手を振る彼に合わせるように、女子たちも大きく手を振って返した。
「それじゃ瀬川、また来週ね」
「瀬川くん、まったねー」
去りゆく少女たちに感謝しつつ、私はぺこりとお辞儀をした。
「みなさん、ありがとうございます」
「どんまい! 頑張って」
笑顔と声援が私の心を揺さぶる。いい子すぎるよみんな。恋のライバルなのに、これじゃ誰と結ばれても、祝福するしかないじゃない。少し感慨に耽りたいところだったけど、そうも言ってられない。背後では彼がずっと待っているのだ。私が振り向くより先に、瀬川君の声が飛ぶ。
「僕になにか用かな?」
たしかに簡単じゃない。彼には私の好意のみならず、この瞬間での行為の意図すら分かってるはずだけど、その先を促すような真似は決してしない。もちろん嫌がらせなどでは断じてない。彼は自己主張を重んじており、相手が切り出すのを待つタイプだから。
「あはは、瀬川君お久しぶりです」
「うん、久しぶり。元気そうだね」
「はい、もう元気しか取り柄がないもので」
ヘラヘラと笑って流れに身を委ねてみたものの、このままでは膠着状態が続いてしまう。私は勇気を振り絞って、本命の言葉を投げかけた。
「えっと、今日はその……、渡したいものがありまして」
その瞬間、彼の表情が少し強張った。なにか不味ったかと思ったけど、単に真面目モードに入っただけかもしれない。予想通り、彼は何も言わない。「何かな?」とでも聞いてくれれば繋げ易いんだけど、彼の中では私のターンは終わっていないという認識なんだろう。こういうとき、現物があるのは助かる。言葉はともかく、物で場をつなぐことができるから。私は後ろ手に持っていたラッピング済の化粧箱を手前に差し出しながら、頭を下げて言う。
「一生懸命作ったものです。お口に合わないかもしれませんが、どうか受け取っていただけないでしょうか」
勢いで言葉をつないだものの、しゃべり終わってから言い回しが下手(したて)すぎたんじゃないかと後悔する。普通に「バレンタインのチョコです!」で良かったのに……。
「ありがとう。でも中身は何?」
やっぱり普通に言えばよかった。チョコだということが伝わってない。慌てるな。言い足せばいいだけだ。とはいえ、ここが今回の最大の難関であることに違いはない。事前に情報を得ているから知っている。瀬川君はチョコが苦手なのだ。一種のアレルギーといっていいぐらいで、口に含むと吐き出すほどだと言う。そして彼の性格からして、食べられないものは絶対に受け取らない。それが瀬川君なりの礼儀。もちろん、対策は打ってきている。私は彼の目をしっかり見つめ直してから、ゆっくりと切り出した。
本編
1
「いい加減、告っちゃえばいいのに」
「いや止めといた方がいいんじゃねえか。あいつ多分彼女とか作る気ないぜ」
昼下がりの教室に役者のごとく配置されているクラスメートたち、総勢40名。その舞台の一部には頭を繰り返し捻る私も含まれていた。 ほどなくしてやってくるチョコレート譲渡作戦に備え、脳内シミュレーションを繰り返していたが、 途中で割り込んできた若干2名の傍観者が、私の恋愛事情を肴に、当人そっちのけで議論を沸かせている。 クラスの男子でもとびきり活発な春日くんの発言に対し、私の親友序列第一位である『りっちゃん』こと律子が口を突き出して反論する。
「なんでよ? 男子なんて女子のおしりを自動追尾するよう遺伝子操作されて生まれてきた生き物でしょ?」
「お前の偏見も半端ねえな。つーか、考えてもみろよ。あれだけよりどりみどり選び放題、時代が時代なら側室まで置けそうな恵まれた奴が、まだ誰とも付き合ったことないんだぜ」
「それって、彼女いない歴=年齢ってやつ?」
「あ? いや、違和感ありまくりだが、その表現で正しいのか……。世界一もてなさそうな涼風でさえ彼女いるってのによ。世の中どうなってんだよ」
「うげ、あいつ女嫌いのクセに彼女いたんだ」
瀬川くんに彼女がいないのは学年でも有名な話ではあるんだけど、実際のところどうなのかと不安になったりもする。ああいう状況だからこそ、お忍びで誰かと付き合ってる可能性もなくはない。とはいえ心配したところで始まらないのも事実。彼がフリーだろうとそうでなかろうと、私が切り出さない限りは進展などありえないのだから。
とはいえ告白か……。どこかで言わないとダメなのは分かっているけど、白黒がはっきりしてしまうのは本当に怖い。関係を曖昧にしておけば、気まずい思いをすることもなく、彼との接触を定期的に楽しむことができる。段階を踏んで、メール交換や昼食の同席等でポイントを稼いでいけば、徐々に親密度が増して事実上の恋人関係というポジションをゲットできるのではないかという淡い期待もあったりする。もっとも、それは逃げ口上でしかないのかもしれないけど。
「さっきから、なにため息ばっかついてんのよ。辛気臭いやつね」
春日くんとの議論が一段落したのか、律子の矛先がこちらを向いた。
「りっちゃんは誰かにチョコあげないんですか?」
「はっ? なんであたしが縁もゆかりもない野郎共に貢物しなきゃいけないのよ」
やっぱりそうなるよね。律子は全くといっていいほど男子に興味を示さない。
「てかさ、男子的にはどうなのよ。駄菓子同然のチョコでも、もらえれば嬉しいわけ?」
「そりゃまあ、たとえ義理でも悪い気はしねえな。だってチョコだぜチョコ!」
よくわからないノリでテンションを上げる春日くん。チョコに特別な思い出でもあるのだろうか。
「なんにしても渡すならさっさと渡しなよ。向こうはあんたが来るのを待ってるわけじゃないんでしょ?」
律子の指摘は的を得ている。放課後が狙い目ではあるんだけど、予期せぬ早退がないとは言えない。しかし、肝心の心の準備がまだできていなかった。
「いや放課後にしろよ。なんなら俺が手伝ってやるからさ」
「へ?」
思わず間抜けなリアクションをしてしまう私だが、それもそのはず。どちらかというと私のことを嫌いなはずの春日くんがなぜ手を貸してくれるのだろう。
「あいつとは放課後の委員会で一緒だからな。動向を伝えることもできるし、なんならそれとなく誘導してやるぜ」
「それは非常にありがたいというかなんといいますか……、じゃなくって、なぜですか?」
「ん? なにがだ?」
「春日くんって私のこと嫌いなんじゃ?」
「はっ? 意味不明なこというなよ。なんで綾瀬ごときを嫌わなきゃいけねえんだよ。自意識過剰なんじゃねえか?」
嫌ってるとしか思えない言い回しなんだけどな。
「こいつは口が悪いだけよ。それに、こんなどーでもいいやつに嫌われたところで痛くも痒くもないでしょ」
「いや、立花だけはマジで嫌いなんだが。こんな嫌な奴ちょっと探しても見つかんねえよ」
「ふふん。人の嫌がることをやれってのが、親の教育方針なのよ」
同族嫌悪の逆バージョンだろうか。どうみてもいがみ合っているようにしか見えない二人なのに、なぜか会話に花を咲かせていることが多い。
「で、どうすんだ?」
「んー、それでは甘美なお言葉に文字通り甘えまして、委員会終了後の瀬川君の足取りをご報告いただければと」
「よしきた。で、お前はどっかで待ち伏せか?」
「委員会って別館ですよね?」
「だな。奥の第2会議室だ」
「では、渡り廊下を抜けたあたりで待つことにします」
棚ぼたとはいえ、準備万端万事OKだ。人事を尽くして天命と天運にすべてを委ねるとしよう。
2
午後の授業を終えた私たちは、別館への移動を開始していた。委員会は30分程度で終わる予定らしく、私はその間渡り廊下近辺で待つことにした。近くでスタンバイしておかないと、万一機会を逃した時に悔やんでも悔やみ切れないからだ。親友としてか野次馬根性からか知らないけど、りっちゃんも待機中の話し相手として付き合ってくれるらしい。
職員室前の廊下を通りがかったとき、春日くんが声を上げる。
「おい、全国模試の結果出てるぜ」
廊下の側面は掲示板になっており、貼り合わされたコピー用紙には模試の順位が印刷されていた。
「俺は何番だ……、171か、で立花が174番と。うっしゃ! 僅差で俺の勝ちだな」
「どうでもいいっつーの。高校なんてモラトリアム期間を満喫するために通ってるだけだし」
「おま、やけに投げやりだな。将来どうするつもりなんだよ」
「なるようになるんじゃないの? 勉強ができなくて死んだなんて話聞いたことないもん」
ちなみにうちの学年は生徒数200名で、張り出されている順位は学年順位だ。最下位まで容赦なく載せるという非情極まりない制度を展開している我が校だった。これ上位者はいいけど、後ろの方は可哀想だよね。
「綾瀬は相変わらず頭いいな。22番かよ。人は見た目じゃ判断できねえよなあ」
いつものこととはいえ、ため息をつくしかない。私ってそんなに頭の悪そうな顔してるかな? 隣では律子が結構真剣な目で順位表を眺めている。どうでもいいと言い切ってた割には、他人の順位は気になるらしい。
「ウソ、瀬川って沙希より上じゃん、あいつって頭いいの?」
「まじかよ! そこまでできたやつだったかな」
意中の人の名前が出たことで慌てて順位に目を向ける私。わっ、ホントだ。17番。
うちの学校では模試や定期試験の順位が公開されるので、他生徒の学力がよくわかる。2学期に入ってから瀬川君の成績が上がってたのは知ってたけど、順位で負けたのは初めてかもしれない。悔しいような嬉しいような……、好きな人だからこそ負けられないという思いもあったりする。でも、瀬川君も頑張ってるんだなあ。いつも女子としゃべってるから、ちゃらんぽらんだと思われてる節もあるけど、そんなことないんだよね。
3
「あーあーてすてす、こちら春日。綾瀬隊員。応答を乞う」
どうして男子はこういうノリが好きなんだろう。なんて、私も人のことは言えないけど。
「お疲れさまです。こちらは委細計画通りです」
「そろそろ終わりそうな感じだ」
「どこから掛けてるんですか?」
「俺たちのグループは一足先に解散になったんだよ。あいつらももうすぐだぜ」
「分かりました。では続報をお待ちしています」
電話を切るや否や、膝がカクカクと震え出した。いよいよ審判のときが来る。チョコを渡すのがメインだが、展開次第では告白するかもしれない。今更確認するまでもなく彼に好意を持つ女子の総数は40前後。みんな明るくて快活で女子高校生とはこうあるべきという姿を体現している。個性派も多く、話題作りが得意な子とか、イベントの企画に長けた子もいる。みんな彼のことが本気で好きで、彼との高校生活を楽しむことを第一に考えている。
そんな中、地味で行動力もない私を瀬川君が選ぶ理由はなにか? そんなもの普通に考えてあるわけがない。置かれている状況を再確認したことで、膝だけでなく全身もカタカタと震え出した。
「まったく、たかが男の一人や二人でブルってんじゃないわよ。みっともない」
ジュースを買うために席を外していた律子が、ローファーをコツコツと鳴らしながら戻ってくる。生まれながらの性格とでも言うのだろうか。彼女の動じない態度はいつ見ても羨ましい。
「もしリっちゃんが私の立場だったら、あっさり告白できそうですね」
「何も難しいことじゃないでしょ。胸倉掴んで『あたしと付き合え』って言うだけじゃん」
「りっちゃんなら本当にやりそうで怖いです」
「ふん。そもそも告白なんてするもんじゃなく、されるもんでしょうに」
「いや、それは受け身ですよ。一見楽ですけど、相手が自分の好きな人だとは限りません」
「ははん。不味い食べ物をおごられるより、自腹でも好きなものを注文できた方がいいってことね?」
「いや、その例えもどうかと思いますが……」
シャラリンリンラン♪
少し気を落ち着かせようと、律子から受け取った紙パックのジュースにストローを刺そうとしたが、丁度そのタイミングで律子に預けていた携帯機がメロディーを奏でた。
「お、来たわね。はーい、もしもし」
私の代わりというより、勝手に出てしまうりっちゃん。ハンズフリーモードにしたようで私にも声が聞こえてくる。
「なんで立花が出るんだよ。綾瀬はどうした?」
「ちゃんといるわよ。たまたまあたしが出ただけ」
「ま、なんでもいいけどよ。瀬川だが、もうそっち向かってるぜ。あと3分ってとこじゃねえかな」
「そういえば会議の他のメンバーは? 一緒に来るんじゃないの?」
「いや、他の連中は別経路だ。ただ瀬川の方も一人じゃねえ」
すかさず会話に割り込む。
「女の子ですね?」
「ああ、こいつらどこから湧いてきたんだよって感じでさ。って一人はうちのクラスのやつじゃねえか。あいつも瀬川命だったのかよ」
「んな情報どうでもいいっての。それより人数」
「ああ、他は2人だ。いうまでもなく男は瀬川だけだぜ」
女子は3人ってことだね。少ない方ではあるのかな。
4
ガールズガーディアンの突破が第一の難関だと思っていただけに、村雨さんの機転には本当に感謝するしかない。紆余曲折はあったものの、瀬川君と一対一の状況を作り出すことに成功した。問題はチョコレートの苦手な瀬川くんにどうやってバレンタインチョコを渡すかだけど。
「小耳に挟んだんですけど、やはりチョコは食べられないのでしょうか?」
瀬川君のチョコ嫌いはソースに信頼性があったため、疑念の余地はないのだけど、今後の交渉を進める上で事実確認を怠るわけにはいかない。
「知ってたのか。それなら話は早い。はっきり言って全然ダメだ。口に入れることも難しい」
改めて聞くと、私たち女子の功罪が浮き彫りになる。結局プレゼントの形態を取ってはいても、それは相手のためでなく自分のためなのかもしれない。しかし、ここは前に進むしかない。
「でも見るだけなら大丈夫なんですよね?」
「そりゃまあ視覚的には問題ないが」
「であれば大丈夫です。私のチョコは目で楽しむタイプのものでして、色と形に拘って作りました」
ウロボロス。なんて格好いいものじゃないけど、8の字の形をしたチョコだ。アクセントとして刻んだナッツをトッピングしてある。色は赤、白、黒の3色。派手さはないけど、見た目はそこそこ綺麗にできたと思っている。私は再度チョコを差し出す。受け取りやすいよう彼の利き手の手前付近まで伸ばした。しかし彼の手は微動だにしなかった。
「どうあれ、食べ物に違いはないだろう? 食べられないものを受け取るのは僕のポリシーに反する」
心拍数が上昇していくのが感じとれた。こうなるのは分かってたことだ。でも案外すんなり渡せるのではと楽観する自分もいなかったわけではない。事がうまく進まないことに焦りを感じる。しかし、これはまだ想定の中の話。
「でも他の子からのチョコは受け取ったんですよね?」
「いや、みんなが用意したのはチョコ以外の食べ物だ」
やはり事前に情報を入手すればそうなるか。でも私はチョコにこだわりたかった。だってバレンタインといえば、チョコレートだから。彼の身体を考えればエゴなのは間違いないけど、私にとっては引けないぐらい大きな問題だった。
どうあれ、ここまでは読み通りの展開。大丈夫。手は打ってある。
「そこはそれ、実は弟さんと事前交渉してまして、3日後ぐらいにでも食べてくださいとお願いしてあります」
少し間があった。なにかを思い出しているような素振りだ。
「なるほど……。あれはそういうことだったのか」
「え?」
「いや、昨日だったか、弟に言われたんだよ。チョコが食べられないぐらいのことで、女の子の誠意を突っぱねるなってね」
そんなやりとりがあったとは。後日、弟さんにもお礼を言わないといけない。しかし今はチョコを渡すことが先決だ。
「では改めまして、バレンタインチョコです!」
三度チョコを差し出す私。ここまでしても受け取ってもらえないなら、もう仕方がない。やるだけのことはやったんだ。あとは瀬川君を信じるしかない。きっと大丈夫。彼は基本的に女子には優しい。相手が私みたいな冴えない子であってもだ。
5秒が経ち、10秒が経った。彼の手は伸びなかった。さらに10秒が経過したころ、私は身体の硬直を解いた。
「あー、やっぱりダメですかね。というかあれですか。お前ごときがバレンタインとか、身の程をわきまえろって感じですかね」
強がってはみたものの内心は半泣きだった。村雨さんの言ったとおりだ。チョコは甘くても瀬川君は甘くなかった。このままみっともなく泣き崩れるより、さっさと消えたほうがいい。このチョコはりっちゃんにでも上げよう。
「待て。そんなこと一言も言ってないだろう。少し考え込んでいただけだ」
涙腺が崩壊する直前にかかった彼の言葉。しかし審判はまだ下っていない。
「食べられないものを受け取るのは僕の哲学に反するが……」
そういった彼は右手をそっと前に差し出す。
「いろいろ手間かけてすまなかったな。ありがたく頂戴するよ」
その言葉を聞いた瞬間、一旦さげていた両手を勢いよく前に突き出した。4度目の正直で叶う願い。
「わわ。ありがとうございます。この御恩は一生忘れません!」
無我夢中で頭を何度もペコペコする。
「どうしてキミが礼を言うんだ」
礼を言うのはこっちだろう、と言ってベージュのサテンリボンと水色の水玉包装紙で包まれたチョコレート箱を受け取る彼。あらためてありがとうの声がかかる。あ、今ちょっと微笑んだ。これは本当にうれしいときの彼のサインだ。やった。
まだ伝えてないことがあったのを思い出し、慌てて口にする。
「言い忘れてましたがクッキーも入ってますので、そちらはお召し上がりいただければと」
「ああ、クッキーなら大丈夫だ」
状況次第で告白もと思ってはいたが、精根が尽きてしまった。チョコを渡すだけでも冷や汗ものなのに、一難去ってからもう一難を迎える余裕は全くと言っていいほどなかった。せっかく上手くいったんだし、今日はここで切り上げよう。倍賭けしてすべてを失っては元も子もない。
5
「このあと予定ある?」
「へっ?」
すんなりお開きになるかと思ってた矢先に受けた質問だったため、なんとも間の抜けた返事をしてしまう私。彼の前でみっともない声を上げてしまったが、覆水盆に返らず。ここは勢いで誤魔化すしかない。
「予定と言えばあれです。今日はスーパーの特売日でして、5時からタイムセールが……」
「そうか。暇なら茶でもと思ったが」
「はわわ。セールと言っても卵が10円安くなるだけでして、正直どうでもよくてですね」
「で、結局どうするの?」
「喜んでご一緒させていただきます!」
まさかの展開。瀬川君からのお誘いなんて完全に想定外のことであり、事前のシミュレーションでも候補の一角にすら上らなかった。やはり積極性というのは大事だと痛感する。こうして瀬川君と接するアクションを起こさなければ、このような突発イベントも発生しえないのだから。
「どっか行きたいとこある?」
「私は瀬川君と一緒ならどこでも楽しいですよ」
ルンルンと鼻歌を歌いながら無邪気に答える私だが、彼の表情が険しくなるのを見て、己が失策を自覚する。だからダメだってば。何度やらかせば気が済むんだろう。彼の前では自己主張。これは徹底しないと。瀬川くんは優柔不断な態度を極端に嫌うから。
「えっと、一応希望はあってですね。駅前のカフェ・ラルーなんていかがでしょう?」
「ラルーか。若干張るがメニューはたしかに悪くないな」
「ですです。なんでしたら私がごちそうしても……」
「さすがにそれは遠慮しておくよ。こっちから誘っておいて奢られたんじゃ立つ瀬がない」
言われてみればそうかも。特に瀬川君は男子だし、女子に奢られるというのもプライドが許さないかもしれない。私は少しだけ間をあけて頷いた。
「分かりました。では割り勘にしましょうよ。私も気を遣いたくないですし」
「そうだな。そうするか」
なんかテンポの取り方が分かってきた気がする。怖気づいちゃダメなんだ。友達だと思って普通に接すれば何の問題もない。
「ではでは。いざ出発です」
私は喫茶店のある駅の方角を指さしながら、元気よく歩き始めた。
6
「混んでそうですね」
「なんだかんだで、このあたりの3大カフェだからな」
駅前のロータリーを越えて、すぐのところにある中央通り沿いのおしゃれなカフェ。それがこのラルーだ。最初に目を引くのは外装で、上部が半円になっている大き目の窓とその上を囲う縞模様のテントが店舗デザインに大きく寄与している。大きな垂れ幕には、装飾されたチョコレートフェアの文字に加えてデコレーションされたケーキの写真が添えられている。先導する瀬川くんは入口の開き戸を手前に引いた。先を促されたので、お礼を言いながら店内に足を忍ばせた。
広めのエントランスには順番待ち用のソファーが並んでおり、正面のショーケースに収められた色とりどりのケーキと共に、来店する人々を歓迎してくる。
「いらっしゃいませ。2名様でいらっしゃいますか?」
臙脂色の制服に身を包んだウエイトレスさんが私たちを優しく出迎えてくれた。見た感じ、私たちと同じぐらいの年齢だろう。ん、この人、どこかで見たような気が……。
「水無瀬さんじゃないか。こんなとこでバイトしてたんだ?」
「誰かと思えば、瀬川君のお兄さんかあ。いらっしゃい」
「席空いてる?」
「うん、丁度2つ空いたとこ。……あ、いけない。知り合いでもマニュアル守らないと怒られるから」
話ぶりから瀬川君の弟さんの知り合いだと思われる。そういえば、他の組にこんな子がいたような。しかしなんだろう。この子、何と言えばいいのか、とにかく可愛い。可愛すぎる。私は常日頃から、他の女子の容姿をそこまで気にはしないのだけど、この女の子は特筆せずにはいられないぐらいに愛くるしい。まるでテレビに出てくるアイドル並みだ。顔の造形レベルから一般人のそれとは違うんだけど、二重瞼の瞳はちょっと大きめでクリッとしてて、なんとも形容しがたい愛らしさを醸し出している。鼻筋はなだらかな流線型だけどどこか芯がある。おっとりした顔立ちにもかかわらず、全体としては凛としてるんだから反則だ。唇は粉雪でも振りかけたような淡いピンクで、健康的な白い歯が垣間見えている。そして圧巻はミディアムに揃えられた髪だ。オーソドックスなストレートだが、漆黒と形容しても申し分ないほど艶がある。前髪は目にかかる一歩手前で綺麗に揃っており、その一本一本が工芸細工のような繊細なラインで頭頂部からカーブを描いている。まさか、この子も恋のライバルとかじゃないよね。もしそうだとしたら、無条件で平伏すしかない。
少々お待ちくださいと言って、場を後にした彼女を尻目に、すかさず瀬川くんに確認を入れる。
「誰なんですか。あの子」
「ああ、C組の水無瀬さんだよ」
「Cと言えば、弟さんと同じクラスですか」
「うん、その弟が執着してる子でね。あ、これ、言っちゃダメだったか」
「ああ、大丈夫です。私、口は堅い方なので絶対しゃべりません」
「それは助かる」
「それにしても可愛いですよね」
「校内で人気投票でもすれば、ぶっちぎりで一位だろうな。村雨もかなりの美形だけどさ。あの子は次元が全く違う」
村雨さんはどちらかというと美人タイプで大人の女性を連想させるけど、さっきの子は少女としての可愛さが強調されている。お互いタイプが違うから単純には比べられないけど、水無瀬さんの可愛さが他を寄せ付けないレベルなのはたしかだ。
「まさか弟さんだけでなく、瀬川君も気になったりとか?」
「いや、僕はノーマルだから」
「はい?」
「なんでもない。今のは忘れてくれ」
なにか気になるリアクションをする瀬川くんだけど、そんな折、水無瀬さんが戻ってくる。
「大変お待たせしました。ではご案内させていただきますが、カップルシートはご利用になられますか?」
「カップルシート?」
思わずリピートしてしまう私。
「失礼しました。カップルシートというのは、カップルの方にご利用いただくためのシートでして……」
説明によると、チョコレートフェアとの関係でカップルシートを利用した人は全品1割引きになるらしい。しかし当然ながらカップルしか利用できないとのこと。
「うーん、残念ながら私たちはカップルではなく……」
「いや、いいんじゃないの。せっかくだし使わせてもらおう」
無念の表情で申し出を断ろうとした私に対し、瀬川君は臆面もなくOKを出してしまった。水無瀬さんがこっそり私に耳打ちする。
「大丈夫です。カップルかどうかの審査なんてありませんから」
「そういうことですか。ありがとです。あ、私、A組の綾瀬と言います」
「沙希ちゃんでしょ。知ってるよ」
「ほえ? なんで?」
「ごめん。今はバイト中だし、また学校でね」
名指しされたことが腑に落ちずしばらく首を傾げて考え込む。私ってそんなに有名人だったかな? それとも、どこかで顔を合わせてたにも拘わらず私が忘れているだけだろうか? いやいや、あんなに可愛い子が記憶に残らないはずがない。そもそも、同じ学年にあれだけ目立つ容姿をした人がいるというのに、どうして今日まで知らなかったんだろう。
7
カップルシートというだけあって、座席は二人掛けだった。向かう合う形ではなく、カーブしたソファーに並んで座るというもの。瀬川君のさりげないエスコートを受け、先手を切って恐る恐る腰を掛ける。生地感からもっと沈むかと思ったが意外と反発が強かった。ほどなくして瀬川くんも私と空気を共有する。愛し合う二人のため、意図的に狭く作られた空間。自然と肩が触れ合う。心臓の鼓動音が彼に届きそうなほど大きく高鳴る。何この急展開。小一時間前までりっちゃんたちとの普通の日常だったのに。
「さて、なんにするかなっと」
私の緊張を意に介すこともなく、メニューを開く瀬川君。さすがに異性慣れしてるだけあって、人目を気にすることもなく普段通りの振舞だった。彼と同じ境地にはたどり着けそうもないけど、あまりガチガチになるのももったいない。二度と訪れないかもしれない二人だけの空間を今は思いっきり楽しまないと。
私もメニューを取ろうと思ったが、カップルシートだけあって1組しか置かれていない。顔をくっつけて見ろということだろう。しかし幸か不幸かフェア用のメニュー表は別に用意されてあり、私はそちらを眺めることにした。
チョコを主役とした洋菓子が表裏合わせて15品ぐらい並んでいる。メインはケーキだが、ワッフルやアイスもある。見た目が肝要と言わんばかりにどれもデコレーションの凝ったものばかりだ。
「チョコレートフェアだけあって、特別メニューの方はチョコづくしですね。特にケーキが美味しそうです」
会話をつなぐ使命感から発言してみたものの、チョコが食べられない瀬川君に振ったのは間違いだったか。顔をにじませる私だったが、瀬川君の方から声がかかる。
「僕に合わせる必要はないよ。チョコケーキでもなんでも好きな物を頼みなよ」
こちらから確認しづらいことだったため、切り出してもらえてよかった。むしろ瀬川くんもそう思ったからわざわざ口に出したのかもしれない。
さて、なににしようかな。このヘーゼルナッツとラズベリーがトッピングされたクリームたっぷりチョコレートケーキか、それともオレンジピールがアクセントのザッハトルテも捨てがたく……
「ねえ、綾瀬さん」
思案の最中で声がかかる。
「これ頼んでみない?」
「えー、なんですか……、!! ひぇ!!」
素っ頓狂な声を上げた私を尻目に、注文を伺いに来た水無瀬さんがニヤケながら会話に参加してくる。
「あ、それ、いっちゃいますか」
「一人では食べられないしね」
そういった瀬川君は再度私に確認の目配せをする。
「えっとその、私の方は別に構いませんが……」
「よし決まりだ」
「ご注文承りました。他にはございませんか?」
「冷えそうだからコーヒーが欲しいな。アメリカン1つ」
「では私はロイヤルミルクティーにしようかと。あとこのケーキも食べたいんですけど、それと合わせると量が多いですかね」
「僕が多めに食べるから問題ないよ。チョコはキミに任せたいが」
「では、それでお願いします」
「それではご注文を復唱致します……」
よどみなく復唱を終えた水無瀬さんは、そのままスタスタと厨房の方に戻っていった。
8
「今更こんなこと聞くのもあれですけど、どうして誘ってくださったんでしょうか?」
本当に今更だけど、なんとなく彼の真意を聞いてみたくなった。普段から女子に囲まれてる彼は、女子に飢えてるなんてことはないわけで、普通に考えれば私とお茶をする理由なんてないからだ。
「キミとは何度か顔を合わせてるが、まだゆっくり話をしたことがなかったからね」
「それってもしかして私に興味があったり?」
「まあ変な意味ではないが、興味はあるよ。他の子から聞いた話ではあるんだが、キミの家はちょっと特別らしいな」
誰から聞いたのかも気になるけど、特別というのはどういうニュアンスなんだろう。確かにうちは普通じゃない。1年の9割以上を不在にする親。ホームエレベータまである3階建ての家屋なのに、実質的に住んでいるのは私一人だ。本当にもったいない。世間のどこにである家族の団らんがどんなものかを知りたいと常々思っている。リっちゃんに聞いたら鼻で笑われて『知る価値もないクソくだらないどうでもいいもの』とか言われたけど、私はそうは思わない。
家族みんなで囲う鍋料理とか一度でいいからやってみたい。テレビのバラエティ番組でも見ながら、ワイワイいって鍋を突くってすごい楽しいと思うんだけどなあ。
「家族みんなで食べるご飯ってやっぱりおいしいですか?」
思わず出た質問。擬似とはいえカップルでする会話ではなかったかもしれないけど。
「やっぱりキミのとこもそうなのか」
空を見上げるように言うその言い回しから、彼の家もうちと似た状況であることを推察させた。いや、そうなのかもと思いながら問いかけたんだけど。
「すみません。友達に聞いても、しっくりした答えが返ってこないもので、瀬川君だったらもしやと」
「ま、日常の幸福なんてものは当たり前のように享受してる人間には分からないものさ。そういう僕らだって衣食住に不自由しない今の生活を幸福だとは感じていないだろ?」
言われてみればそうだ。友達の家にでも遊びに行けば、我が家の生活水準がいかに高いかを思い知らされるし、逆に我が家に招いたときの皆の驚きようからも分かる。
『100インチのテレビなんて初めてだよ。迫力半端ないね。ちょっとしたシアターみたいじゃん』
『このリビング何畳あんの? 広すぎっしょ。このソファー1つとっても、なんか素材が違うっていうかさあ』
『あーもう、沙希ちゃん羨ましすぎだよ。一体なにが不満なの? は? 家族の団らん? スーパーのコロッケ囲って?』
『世の中不公平だよね。家が超金持ちなのに、うざい親がいないって、誰もが夢見る理想的環境じゃん。めちゃめちゃ羨ましいんだけど』
多分友達の感覚の方が普通なんだろう。でも、現実に戸籍の交換が可能だと言われたら、何人が判を押すだろうか。きっと私だって押さない。
「ま、重い話は少しあとにするか。注文したものも来たみたいだし」
遠くからでも異様に目立つ水無瀬さんが、大きなグラスの載ったトレイを持って近づいてくる。
「お客様、大変お待たせいたしました。フルーツパフェのダブルでございます」
問題の一品が到着してしまった。まさか瀬川君がこういうものを頼むなんて。ちなみにここで言うダブルは二人前の意味で、グラスには通常の倍量が盛られている。そう。グラスは1つしかない。これを彼と私の二人がかりで食べることになる。
「残りの品もすぐにお持ちしますので、今しばらくお待ちください。では失礼いたします」
慇懃な対応が妙にハマっている。なんかカッコイイなあ。つくづくライバルでなくて本当に良かったと思う。
「あの子、ここではこういうノリなのか。普段とかなり違うな」
「あれ、そうなんですか?」
「うん、学校ではどっちかというと、子供っぽいというか抜けた感じなんだが」
仕事中ゆえのモードチェンジなのだろうか。やはり学校では顔を合わせていたのかもしれない。気が付かなかったのは、普段と雰囲気が違うからだろう。きっとそうに違いない。
「では食べるとするか」
「ですね。でもどうしましょ。1個しかないフルーツとか、食べづらいですよね」
「まあ、その辺はどっちが食べても恨みっこなしにしようよ。あまり気を遣ってもさ」
「分かりました。では私はケーキもあるので、ゆっくり食べますね」
パフェは生クリームをトッピングしたフルーツ層から始まり、アイスクリーム、コーンフレーク、チョコソースなどが絡み合った構成となっている。無理すれば彼一人でも食べられそうな量だが、チョコだけは私が頂くしかないだろう。もっとも味を感じない程度の極少量であれば大丈夫らしいけど。
大きいがゆえにお互いに食べる領域が衝突することもなく、パフェ山はその形を崩していく。やがて他の品もそろった頃には、半量程度が私たちの胃袋に収まった。配分的には瀬川君が私の倍は食べたと思う。これが友達同士なら割り勘の配分で揉めるところだけど、今はそんなこと心底どうでも良かった。彼と同じグラスを囲うことがドキドキして仕方がない。
「やはりこの辺までくるとちょっと恥ずかしいですね」
「ん、そうか? 鍋だと思えばそうでもないだろ?」
鍋という単語が出て、私は先ほどの想像を思い出した。たしかに鍋料理の場合は大勢で1つの鍋に箸を伸ばすわけで、家族はもちろん友達同士であったとしても、間接的な箸の接触など気にしないかもしれない。とはいえ、そう簡単に割り切れる問題でもなく。
夢のような状況にもかかわらず、スプーンが彼と接触しそうになると、ケーキに逃げてしまう自分が情けなかった。どうしよう。もう残りは瀬川君に任せようか。どうせ底の方はチョコソースだから、私が食べるしかないし、それまでは彼のターンということで。
「お節介かもしれないけど……」
突然掛かった声の主は、お冷を注いで回っている水無瀬さんだった。
「もうちょっと大胆になった方がいいと思うな。あとで後悔するよ」
仕事中ということで独り言のようなしゃべり方だったけど、明らかに私に向けられたものだ。そうだった。私は何しにここに来てるんだろう。どんなことも次があるとは限らないというのに。
彼女の言葉に触発された私はパフェの中段のクリーム層に突撃する。彼が食べたと思われる部分にスプーンを差し込みすくった。瀬川君はコーヒーをすすっている最中だった。特に気にした様子はない。私は引き寄せたクリームを少しためらったあと、口に放り込んだ。クリームが舌の上で溶け、甘さが口内に広がっていく。特別な味がするわけではないが、私の頬は激しく紅潮した。
「このパフェ思ったより軽いな。もう1品なにか頼むとするか」
恋愛の達人、百戦錬磨の瀬川君はこの程度のイベントではまったく動じなかった。さすがとしかいいようがない。
9
時限融解装置であるパフェを攻略し終えた私たちはようやく落ち着いて会話できる状態になった。あれはあれで楽しかったけど、やはり喫茶では会話を楽しみたい。彼は追加注文したサンドイッチを、私はケーキの残りを頬張りながら、談笑モードに入った。私たちは息が合うのか、単に共有した時間が少ないからか、話題が絶えることはなかった。学校のことから始まり、互いの趣味や、果ては料理の話まで進展していった。
「瀬川くんもお弁当は自作派なんですね」
「うちは半ば強制だから。そういうキミのとこもそうだろ?」
お互い親に頼れない境遇。私たちは似た者同士だ。こんなことで私の魅力が増すわけでもないのに、なにかアドバンテージを得た気になってくる。
「ではでは、今度お弁当の取り換えっことかしませんか? 交換であれば急な欠席とかあっても困りませんし」
「そういうノリは女子の方が得意そうだが、僕的にはちょっと抵抗があるな」
「うー、ダメですか。もちろんその日は瀬川君に合わせて多めに作りますよ」
「ま、気が向いたらね。考えとくよ」
やんわりと拒否された気もするけど、なんかいい感じだ。こんな雰囲気で彼と会話できる日が来るなんて思ってもみなかった。 一言の会話や駆け引きが楽しすぎて仕方がない。これはもう勢いで家に誘ってみようかな。無駄に大きな家だけど、話題作りには事欠かない。一緒に料理をするのも楽しそうだ。そして、私の部屋にも招き入れたりすれば、もう事実上の恋人だよね。だって、私生活の空間を見られるって最高に恥ずかしいことだし、そういう場所を見たり見せたりするのは異性なら恋人しかありえないから。よしっ、誘ってやる。今の私は無敵だ。なんでもできる気がする。
「瀬川くんって、女子の家にはよく遊びに行ったりするんですかね?」
まず導入から始めよう。もちろんYESなのは分かり切ってるけど、会話を伸ばすには必要なきっかけというやつだ。
「いや、一応線引きはしててね。女の子の家には基本行かないようにしてるんだ」
「やはりそうですよね。では今週末あたり私の……って、あれ?」
「どうかした?」
「いやあの……意外だなって思って」
「そうでもないだろ。男女というのは場所が場所なら間違いが起こるものだ」
ああ確かに。って、いやそれはそうだけど、そんなこと言ってたら何もできないというか、でも間違いまでは考えてなかったのも事実で、私的にどうなんだろう。確かにまずいような気もしてきた。私の身体がどうこうよりも互いに社会的に破滅しかねないような気がする。うちの高校は校則で恋愛禁止を堂々と謳ってるし、校風からして退学もありえる。そうでなくても噂が立てば、学校にいられなくなりそうだ。生徒からつまはじきにされるという現象を甘くみてはいけない。学校という場所は基本的に生徒の方が数が多いのだ。しかも外界から隔絶された閉鎖空間ときている。冗談抜きで四面楚歌になりかねない。しかも、こちらに非があるとなれば抵抗もしづらい。やはり家はダメだ。こういうとき親がいないというのは問題だ。抑止力がない状態じゃ、なにが起こるか分かったもんじゃない。でも自制してるぐらいなんだから、彼の方から手を出すこともないような。いや、男子たるものムラムラすれば本能で……。
「急にどうしたんだ? 頬も赤いようだが?」
「ああいえその、頭の中がいろいろぐるぐる、ちょっと妄想癖が出てしまってですね」
ダメだ。私、最低だ。いやらしすぎる。彼の本能を疑う前に、私が瀬川くんを襲わない保証がどこにあるのかと。邪な思いを払いのけるために、頭をブンブンと振る。
10
少し話題転換をした方がいい。ふと思い出したチョコを渡すシーンでのワンカットを脳裏に浮かべながら尋ねる。
「村雨さんとはどういうご関係なんでしょうか? 腕を組んで歩いておられたようですが」
なんとなく訊いてみたものの、彼の表情が険しくなったのを見て慌てて取り繕う。
「あわわ、もちろん、腕を組むのは瀬川君の完全なる自由でして、それをどうこう言いたいわけでなく、単に気になってですね」
「別に大したことじゃないよ。あのあと委員の仕事をする予定だったから、僕が逃げないよう彼女に監視されてただけさ」
おかわりのコーヒーをすすりながら、淡々と答える瀬川君。そういうことか。てっきり特別な関係だとばかり思ってた。やっぱり物事は裏を取らないとダメだね。とはいえ、彼女が他の子と同列だとも思えない。なぜなら彼女は瀬川君のことを呼び捨てにしているからだ。ん? よく考えたら瀬川君も彼女のことを呼び捨てにしていたような。他の女子には絶対『さん』を付けるのに。なんか気になるなあ。でもまあ、個人の事情を詮索し続けるのは嫌らしいし、少し一般的な質問をしてみようかな。
「瀬川君は誰かとお付き合いはしないんですか?」
「付き合いというのは男女交際という意味か?」
「はい」
喉をゴクリと鳴らせつつ答える私。少し踏み込みすぎたかな。
瀬川君はためらった様子を見せつつも、静かに口を開く。
「少なくとも、『今』はないな」
その言葉を聞いて少なからずショックを受ける。これが彼の真意であれば、誰であろうと告白すれば無条件で振られることを意味する。しかし『今』の部分を強調した点は気になった。
「今はなくとも将来的にはあるということですか?」
「まあ早くて高校卒業時か。卒業式の日であれば、ちょうど切りがいいかもしれない」
ますます分からない。年齢的な問題とかあるんだろうか?
「キミは男女交際の本質というもの知っているか?」
真剣なまなざしで問いかける彼に、首を振って答える私。
「いえ、踏み込んで考えたことはないですが」
「いわゆる恋人関係というのは友達のそれとは大きく違う。簡単に言えば、排他的独占契約なんだ。仮に僕とキミが付き合ったとすると、僕はキミ以外の女性を好きにならないし、特別な場を持つこともないという宣言をすることになる。もちろんキミも同じ制約を負うことになるね」
仮定の話とはいえ、私が引き合いに出されたことにドキっとする。しかし契約という単語はロマンチックな関係にそぐわないと思った。
「しかし見方によっては窮屈なルールでもある。このような縛りが発生するのは、婚姻における一夫一妻制が原因だろう」
「つまりあれですか? 瀬川くんは誰にも縛られたくないから彼女を作らないと?」
「まだ話の途中だ。最後まで言わないと僕の真意は伝わらない」
少し語気を強めながら言う瀬川君。気圧されて反射的に頭を下げてしまう私だったが、その反応を見た彼はすまないというジェスチャーを私に送る。
「ま、結婚を視野に入れるなら、そのような関係も悪くないだろう。しかし僕らはまだ高校1年生だ。年齢にして15、6歳。世間からすればまだまだ子供。当然、結婚などあるはずがない。なのに枷だけは大人と同じものが発生する。おかしいと思わないか?」
たしかに私たちの年齢で結婚を前提としたお付き合いをしてる人なんていないだろう。今はまだ遊びたいざかりなわけで。
「ここが重要な大前提だ。僕らは子供なんだよ。自覚がどうあれ、法的に未成年なんだ。何の権利も持っていないし、なにかあっても責任も取れない。それどころか責任の大半は親に行ってしまう」
さっき言っていた間違いの話だろうか?
「背伸びして恋人ごっこをしたところで、何の権利も持たない僕らは友達の延長上の付き合いしかできない。だったら友達のままでいいと考えるのは自然なことだろ?」
彼の主張は分かるけど、私も少しだけ反論する。
「でもでも、正式に恋人になれば、嬉しいのは確かですよ。友達にも自慢できます」
「なんだそれは。キミは彼氏持ちというステータスが欲しくて男と付き合うのか?」
やっ。違う。そうじゃない。自慢云々は失言だった。そうじゃなくって、お互いの気持ちを確認し合って、特別な関係下にいることを自覚できることに価値があるわけで。
「ちょっとヒートアップしすぎたか。しかし話はまだ長い。少し休憩しよう」
そういって彼は席を立った。緊張の糸が途切れたことで、少し深めに息を吐く。私も少し頭を冷やした方がいいかもしれない。強張った肩を背もたれに預けてから、水無瀬さんの注いでくれたお冷を一口すする。火照りはまだ冷めないが、落ち着きは少しずつ取り戻せてきた。
瀬川君の真意はなんだろう。彼は決して女性をたらす人ではない。1年近くも彼を見てきたのだ。それは断言できる。縛られたくないというのは本音かもしれないけど、本質だとは思えない。恐らく根底には別の理由があるはずだ。
11
再び席についた瀬川君は、私との会話を再開する。
「話の続きと行きたいところだが、僕の家庭状況も噛んでくるんだ。正直面白い話でもないし、もし迷惑ならここでお開きにしてもいいが?」
「いやいや、さすがにそれは殺生です。気になって夜も眠れませんよ」
彼との貴重な時間を引き延ばしたいという下心もあるにはあったが、それ以上に続きが気になるのは本音だった。
「恋愛という言葉は響きがいいが、現実には不自由が多いんだよ。その1つが恋人による束縛だ」
なんだかドロドロした言葉が出てきた。恋ってもっと甘酸っぱいものだと思ってたけど、瀬川君の中では違う味なのかな?
「男女の付き合いにまつわる最大の障害は束縛にあると言っていい。他の女子と一緒に食事をするな、ぐらいならまだ可愛い方だが、会話もするな、視線も合わせるな、同じ空気も吸うなとまで言われれば無茶を通り越して、ばかげているとしかいいようがない。そんな関係を望むのなら、無人島にでも行って二人で暮らすしかないな」
さすがに無茶苦茶だ。いくらなんでも、それじゃ生活が成り立たない。でも現実問題として、どうだろう。成就したはずの恋と裏腹に、彼が他の女子と食事をしてたら、ショックを受けないと言えるだろうか。たとえそれが人間関係上、必要な場だったとしても。
「男女が付き合うということは、他の異性を生活圏内から排除することを意味する。互いにだ。なぜか。そうしないと不安だからだ。恋人宣言どころか、婚約や結婚をしたところで、恋愛感情が他に移らない保証などどこにもないからな」
浮気。破局。離婚。そんな単語があるぐらい、男女の関係は脆く儚い。絆を強くするには無理に縛るんじゃなくて、相手の感情が自分に向くよう自己の魅力を高めるしかない。
「契約は強力だが、所詮不自然な力で保っている関係だ。だから崩れるときは一瞬だ。うちの親がその象徴だよ。正直なところ離婚した方が第二の人生を満喫できるんじゃないかと思うんだが、僕らがいるからそうもいかない」
瀬川君の家庭環境。正直よくない噂しか聞いたことがないけど、その詳細が流れてきたことは一度もない。きっと彼は誰にも口外していないんだ。噂にしても別経路から広がった感じだし。
「瀬川君はお父さんとお母さんに離婚してほしいんですか?」
私の問いに珍しく口をつぐむ瀬川君。ストレートに訊きすぎただろうか。私は表情で謝罪を訴える。きっと答えはYESなのだろう。でもはっきり答えられないぐらいに心は揺らいでるんだ。
「弟も僕とほぼ同じ見解なんだ。酷い息子たちだろ?」
私は静かに首を横に振る。瀬川君たちだって本心では別れてほしいなんて思ってるはずがない。きっと苦渋の決断なんだ。
「これでも僕らなりに両親の幸福を考えて言ってるんだ。あの二人は異常だ。あまりにも意見が合わなさすぎる。いや合わせなさすぎる。まるで粗探しするかのように相手の欠点を並べ立て、こき下ろす。少しでも論理に綻びがあれば徹底的に攻め立て、相手が口をつぐめばまるで鬼の首を取ったかのように勝ち誇って貶しまくる。仮にも夫婦と呼ばれる関係でやる行いじゃないだろう?」
聞いてるだけでつらくなってくる。級友同士でもありうる話だけど、学校は年数が限定されてるだけマシだ。家族関係というのは一生涯付きまわる。共同生活の場で自分の近しい人たちがいがみ合っていれば、心が壊れてもおかしくない。
「昔からそうなんですか?」
「いや、少なくとも僕らが中学に上がる前後までは、普通の家庭だったんだ。どこからかおかしくなった。思い返せば、小学校時代にしても、細かいトラブルはあったかもしれないな。その頃はまだ二人とも一線は超えてなかったんだ。ギリギリのところで我慢してたんだろうな」
一呼吸間を置いて話は続く。
「中学に上がってすぐの頃だったかな。それまでのうっ憤を晴らすかのような壮絶な夫婦喧嘩があった。取っ組み合いにこそならなかったが、互いににらみ合っての口論が明け方まで続いた。その後しばらくは落ち着いたが、母は実家を行ったり来たり、父は頻繁に浮気してたな。まあある意味どこにでも転がってそうな、絵に描いた家庭崩壊ってやつさ。今日まで離婚しなかったのは奇跡としか言いようがないが、明日離婚届が提出されても驚かないね。そんな状況だ。笑えないだろ?」
うちも大概だと思ってたけど、瀬川君の家と比べれば断然まともだということが分かった。少なくとも、私の両親は円満だ。普段顔を合わせてないから逆に上手くいっているのかもしれないけど。
「キミは家庭内別居というのが、どういうものか分かるか?」
私は首を横に振る。
「普通は家族で1つの食卓を共有するだろ? しかしうちは違う。全員が別々に食べる。それぐらいならまだいいが、家屋や家具、あらゆるものは親のどちらかが所有権を持っていて、母の持つ洗濯機を父が使うなら、使用料を払わなければならない。笑えるだろ? こんなのが家庭といえるか?」
「どうしてそんなことに……」
「簡単に言えば価値観の相違。それだけの話なんだよ。父は母の向上心の無さが許せないというし、母は父の問題意識の無さが許せないという。どっちもどっちだし、普通は適当に妥協点を探るもんだけどね。うちはなぜかそれがエスカレートして、変なところで落ち着いてるってわけさ」
「一応は落ち着いてるんですね」
「形だけさ。顔を合わせれば、口論ばかりだしうんざりだ。そこまでいがみ合う二人がなぜ一緒の家に住むんだろうな。婚姻契約って怖いだろ?」
「でも、それは瀬川くんを養うためで、責任感があるからで!」
「だからこそ、その足枷がさっさと自立すりゃあ、あの二人は本当の幸せを掴めるんじゃないかって思うんだよ。とはいえ今の世の中、中卒で働くなんて自殺行為だ。妥協して高卒。本音を言えば進学したいんだけどね。ま、僕はともかく弟だけはなにがあっても進学させるつもりでいるよ。本人の希望でもあるし」
模試の結果を思い出す。瀬川君の順位が上がってたのも、彼の覚悟の現れなのかもしれない。表面上は平静を装ってるけど、内心は必死なんだ。特に彼は長男だ。同じ日に生まれたとはいえ、やはり兄としての責任感もあるのだろう。
12
「簡単なんだよ。価値感の合うもの同士が付き合えばいいんだ。それだけの話だ。しかし、価値観なんて人それぞれ違うものだ。せめて致命的にならないすり合わせぐらいは必要なんだろうけど、それも付き合いが長くないとよくわからないものだ」
「だとすれば急がずゆっくり関係を築けばいいってことですよね」
「そうなるな。であれば、なにも高校生の身分で恋人宣言をする必要もないだろう。せいぜい友達の延長で付き合えばいいだけの話だ。時期がくれば、自動的に関係というものは昇格するし、そうでなければそれだけの関係だったということ」
「でも、気持ちは伝えたいって思ってます」
「別にそのことは否定していない。それは話が別だからな」
いろいろ分かった。私が彼と付き合うということは、彼の背負っている人生も半分は抱え込むことを意味する。もちろんその覚悟はある。いや分からない。
「一つ聞かせて下さい。どうしてそんな話を私にしてくださったんでしょうか?」
「なんでだろうな。僕も限界だったのかもしれない。誰かに聞いてほしかったんだ。キミの迷惑も考えずにすまないことをしたと思ってる」
特に私だからという理由ではなかったのかな? それでもうれしい。彼と二人きりの秘密を共有できたことが。
「いえ、嬉しかったですよ。もしつらいことがあったら、これからも私に打ち明けてください。相談してください。法的な問題とかも。私のお母さんは弁護士なんです。私ができることならなんでもしますので」
「ありがたい申し出ではあるが、キミはどうしてそこまでしてくれるんだ?」
「いじわるですよ。私の気持ちなんてバレバレなはずです」
「そういうなよ。僕はエスパーじゃないんだ。他人が心の底で何を考えているかなんて分かるわけないだろ?」
言葉に出して言え……か。正論だね。たしかに普通は分からないよね。瀬川くんの感情が8割は読めると自負する私でさえ、彼の心の奥底までは見通せないし。
バックグラウンドで流れていた音楽が途切れ、しばしの静寂が訪れた。どのみちもう退路はない。ここで切り出さなければ二度と機会は訪れないだろう。そんな思いと彼への想いが交錯して、重い胸が解放されていく。その言葉は自然と零れ落ちた。
「ずっと前から好きでした……」
言えなかった言葉。やっと出た。でも、ダメだ。もっとはっきり言おう。私は顔を上げて、瀬川君の両の瞳を見つめる。 彼も珍しく真剣な表情だ。私の反応を待っているに違いない。
「私、綾瀬沙希は瀬川君のことが大好きです!」
言葉というのは偉大だな。人の感情なんて態度で分かるとは言っても、やはりはっきり声にする必要があるのだろう。私の口元から出た声音は、空気を通してすぐに彼の耳へと届く。彼の表情が緩んだかと思えば、少し儚げにも見える。私にとっては限界の行為であっても、恋愛慣れしている瀬川くんにすれば、日常の一コマにすぎないだろう。でも、その反応は伺いたい。こんな瞬間なんて人生で何度も訪れないのだから。やがて待ちわびた彼の口が開く。
「思えば初めてかもしれないな」
「え?」
「ストレートに告白されたの」
「あれ……、いやそんなはずは……、うそですよ。だってあんなに女の子がたくさん」
「いや感情は汲み取れるんだが、僕に気を遣ってか、はっきり言う子はいないんだよね」
「そうだったんですね」
「キミの好意は素直に嬉しい。だからこそ精一杯の誠意として答えておくけど、キミに対して特別な感情は持っていない」
うん、知ってたよ。だって分かるもん。ずっと見てたから。私がどう見られているかも。でもなんでだろ。改めて言葉ってすごい。彼のその一言が起爆剤になって、私の涙腺が崩壊した。頬を滴る雫がテーブルの上を濡らしていく。
もしかしたら何かの間違いで、彼が私に好意を持っている可能性も1%ぐらいは、いやコンマ1%ぐらいはあると期待していた。案外すんなり相思相愛になれるんじゃないかって楽観してた。でもやっぱり……、現実ってチョコのように甘くはないんだね。
「すまない。女子を泣かせるなんて最低だな」
「いえ、向き合ってもらって感謝です。これはきっと嬉し涙です」
涙は一向に止まらなかったが、それでも彼に負担を掛けまいと、嗚咽を漏らしながらも精一杯の返事をした。
13
私は電車だけど、瀬川くんは徒歩だ。駅の改札で瀬川くんと別れることになった。
「あまり大したものは用意できないと思うけど、なにか返すよ」
彼は包装された水色の包み紙をかざしながら言った。
「お構いなくです。でも期待してますね」
「それじゃ、気を付けて帰りなよ」
「はい。ではまた学校で」
そんな感じで私たちの時間は終わりを告げた。
駅のホームに上がるころには、収まっていた涙が再びあふれ始めた。嬉しさと悲しさが半分ずつぐらいでマーブル模様のように混ざり合っている。
「その様子じゃ、結果を聞くまでもないわね」
聞き慣れた声が聞こえてきた。
「あれ? りっちゃん……。なんで?」
「首突っ込んだ手前、最後が気になるじゃんよ。ま、一人になりたいって言うなら消えるけど?」
「いえ大丈夫ですよ。むしろ話をいろいろ聞いてもらいたいというか」
「別に気にすることないわよ。瀬川がちょっとイケてるのはあたしも認めるけどさ。世の中、あいつだけが男じゃないんだからね」
「そこまで悲観的な展開じゃないですよ。ちゃんとチョコは受け取ってもらえましたし」
「でも振られたんでしょうが?」
「告白できただけでもすごいことなんですよ。もう1回やれと言われても多分できません」
「ま、区切りがついて良かったじゃん。しばらくは男なんて忘れてさ。友達同士でパーっと遊ぶわよ」
「でも今日の一件でますます瀬川くんのことが好きになったかもです」
「はあ、なによそれ? 未練たらたらじゃ先に進めないでしょうが」
「いえ、そうではなく、まだなにも始まっていませんから」
「意味わかんないんだけど」
まだ終わらせない。別に完全に拒絶されたわけでもない。彼の環境要因が恋愛の妨げになっているのなら、それを取り除けばいいんだ。思えば好きという感情を言葉に出して伝えたというだけだ。別になにも始まってない。一言で関係が進展するほど人間関係というのは単純じゃない。
とにかく想いは伝わった。これは大きな進展と言える。お付き合いができないのは残念で仕方がないが、彼を取り巻く環境において、付き合うというのはそんなに簡単な話じゃないらしい。契約書に判を押せば、恋人関係が保証されるわけではないのだ。人間関係というのは不断の努力によって築き上げるもの。今日渡したバレンタインのチョコだってその一つだ。コツコツ頑張る。特に瀬川君は家が大変な状況だ。私も彼のためにできることがないか考えよう。
エピローグ
早いもので1か月が過ぎた。今日は3月14日。バレンタインの付属イベントがあるあの日だ。学校の方は期末試験も終わり、解放感あふれる雰囲気に包まれている。
職員室の前を通りがかった私は、張り出されている試験結果に歩みを止めた。自分と彼の順位が隣り合わせだったことに思わず頬が緩む。
「2連勝は無理だったか」
不意に背後から声がかかる。振り向かずとも、誰かは分かるが、やはりその姿は視認しておきたい。
「瀬川くん。こんにちはですよ」
珍しく一人かと思ったが、背後からひょっこり女子の制服を纏う生徒が現れる。ま、そうだよね。でないと、私の知ってる瀬川君じゃないし。
「未だに後ろめたい感情があるんだが、大丈夫か?」
「あ、もう平気ですので。というか瀬川君はそんなこと気にしなくていいんです。もっと悠然と構えてください!」
「そうなのか。まあキミがそういうなら」
隣に立つ女子生徒も会話に参加してくる。
「沙希ちゃんにもまだまだチャンスあるって。お勉強もできるし、気立ても良くて、こんなに可愛いんだから」
突然話を振られてびっくりしたが、それ以上に告白したことが周知されている事実にショックを受けた。
「ひどいですよ。あのことを言い触らすなんて」
私は瀬川君に非難を浴びせるが、彼も困惑した様子で返してくる。
「心外だな。誰にも口外してないさ。この子は現場に居合わせたから知ってるだけで」
「ごめんね。たまたま近くを通りがかったときだったから」
偶然なんてことあるものだろうか。たしかにあの喫茶店は学校帰りの生徒が多く利用する場所ではあるけど。そもそも、この子誰なんだろう。どこかで見た気がするんだけど、肝心の名前が出てこない。
「すみません、どちら様でしたっけ?」
恐る恐る質問してみるも、喜怒哀楽が激しい子なのか、明らかに不機嫌そうな表情に様変わりする。
「わっ、ひどい! お前なんか知らないし気安く話しかけんなって意味かな?」
悪態を付きながらも、冗談っぽい振る舞いのため本気さを感じさせない。
「なっ、茶店のときとは雰囲気違うだろ?」
茶店と聞いて、一人の女性を連想する。
「もしかして水無瀬……さん?」
「他の誰に見えるのか、教えてほしいな」
満面の笑みを浮かべながら、凄みを利かせる水無瀬さん。ウエイトレスのときに感じた絶世の美少女感こそ影を潜めてるけど、感情の起伏が大きくて面白い子だなと思った。接客業に従事してるだけあって、対人関係も苦にしなさそうな感じを受ける。
「ケチなこと言わないで、沙希ちゃんと付き合えばいいのに」
「弟をゴミみたいに振ったキミがそれを言うか?」
瀬川君は顔をしかめて続ける。
「あいつ、一昨日からこの世の終わりみたいな顔しててさ。見てられないんだが」
弟さんの恋愛事情も大変っぽい。水無瀬さんに告白でもしたんだろうか。
「ちゃんとごめんなさいって謝ったのになあ」
いやその謝罪は何のフォローにもならないような。
「言っとくけどね。あたしだってカッコイイ男の子と燃えるような恋がしたいって思ってるよ!」
「素朴な疑問なんだが、キミは女子には興味ないのか?」
「はっ? 女子と何するの? 気持ち悪いこと言わないでよ」
なんだかよく分からないやりとりをする二人。
「恋愛なんてのは生活基盤の出来てる人がやることなの。あたしには余裕ないの」
「たしかに余裕なさそうだな。本当に卒業できるのか?」
そう言った彼の視線は順位表の右下に向かう。つられて視線を落とすと、その先には彼女の名前『水無瀬 渚』の文字があった。えっ……197って……。
「うぅ、とりあえず進級はギリギリなんとかなったけど、さっき担任の先生に呼び出されて『お前このままじゃ100%卒業できない』って言われたとこ。マイホームかけてもいいって得意満面で言ってるんだよ。仮にも教師なのに!!」
そういえば高校は中学と違って、全員が卒業できるとは限らないんだった。たしか統計的には98%ぐらいだったかな。高いには高いけど何十人に一人かは中退するわけで、その一人が彼女である可能性もないとはいえない。
「いっとくけど、勉強はしてるんだよ! でもわかんないの。先生の説明も教科書の解説も根本的に言ってることが分からないの!」
それはそういうものだよね。勉強なんてものは基本積み重ねだから、前提条件が分からないとどんな解説も理解不能だと思う。
「でしたらバイトなんてしてる場合じゃないんじゃ?」
「なにそれ! それってあたしに餓死しろってこと? 雑草でも食べてろっていいたいわけ?」
瀬川君から耳打ちされた。どうやら彼女の家は極度の貧困状態らしい。
「ふんだ。どうせ沙希ちゃんは、路上のゴミ箱とか漁った経験ないんでしょ?」
「いや、普通の人はないと思いますが」
「公衆のゴミ箱って透明なの多いし、食べかけのパンが入ってたら普通拾うでしょ?」
「普通は拾いませんよ。誰が口を付けたか分からないじゃないですか!」
「1週間なにも食べてなかったら、そんなことどうでも良くなるよ。土足で踏みつぶされたグチャグチャのクリームパンでも舌がとろけるほど甘くて美味しいんだからね!」
まるで食べたことがあるような口ぶりだ。事実、回想した甘さで頬が緩んでいる。一体どんな生活をしてるんだろうこの人。
「水無瀬さんを見てると、些細なことで悩んでるのがバカらしくなるな」
「うわっ、人を見下すのがそんなに楽しいんだ。お役に立てて光栄ですよーだ」
舌をベーっと出して悪態をつく水無瀬さん。本当に子供っぽい。ウエイトレスのときとは完全に別人だ。
「それはそうと忘れないうちに渡しておくよ。大したものじゃなくてすまないが」
予告されていたため心の準備はできていたが、いざ当日になったらもらえないのではないかという不安もあった。簡素だけど綺麗にラッピングされたそれは手作りのクッキーとのこと。
「わぁ、ありがとうございます。3日ぐらい大丈夫ですかね?」
「まあ大丈夫だと思うが、早めに食べた方がいいんじゃないか?」
「とんでもありませんもったいない。毎朝ながめてニヤニヤする機会が欲しいじゃないですか!」
「ま、まあその辺は好きにしてくれればいいが」
午後の日差しが差し込んでくる。窓枠でクリッピングされた光の束が、私たちを祝福するかのように包み込んだ。
fin